昭和20年8月16日。場所は満州国・奉天飛行場。第二航空群・第26教育飛行隊・隊長・島田安也中佐(陸士38期)は、この春、航空士官学校を卒業したばかりの58期生の少尉達に最後の訓示をした。「諸君らにはこれまで、国のために死ね,と教えてきた。今を以て命令を変える。死んではいかん。何がなんでも生きて帰り祖国再建のために尽くせ」
国に敗れて人物あり。その言やよし。島田中佐の同期生は340名。その中には2・26事件連座、処刑された安藤輝三、磯部浅一がいる。「功名、何ぞ夢のあと 消えざるものは、ただ誠 人生、意気に感じては成否を誰か挙げつろう」と、「昭和維新」(作詞・三上卓・9番)は歌う。
ソ連侵攻の報に58期生を中心に「若楠特攻隊」が編成され、赤トンボや97戦に25キログラムか50キログラムの小型爆弾をつるして出撃命令を待っていたところであった。帰国命令が出て一度も戦火を交えることなく58期生たちは日本へ復員した。その中に戦後東大第二工学部を出て富士通に就職、後に社長、会長となった山本卓真さんがいた。父親は軍人、陸士56期生で特攻死した兄を持つ山本さんは島田中佐の言葉を何度も自問したという。山本さんは背筋が一本通っていた。相手がだれであろうとも何事にも理非を明確に主張した。ソフトの著作権をめぐりIBMとの紛争でも相手の非をはっきりと主張された。靖国神社参拝問題では中国に媚び、中国の目先の利益しか考えない財界人を名指しで批判する論文を雑誌に掲載した。
社長を9年も務めた富士通中興の祖でありながら1月17日、86歳で死去するや遺言で近親者のみで葬儀を行った。会社側からの社葬の要請を断り続けたと聞く。
山本さんが代表幹事を務めた同台経済懇話会では2月21日の総会に合わせて山本さんのお別れ会を開いた。黙祷の後「陸軍士官学校校歌」と「海ゆかば」を合唱した。懇親会でも「航空百日祭」と「遠別離」を歌った。
「されどめぐらせ 我が思ひ
図南の翼に あこがれて
淡紺青の 襟めざし
修武の台に 集いたる
五誓に結ぶ 丈夫の
いかで忘れん このよしみ」(航空百日祭3番)
この先輩・同期生・後輩らによる“軍歌演習”が山本さんにとって一番うれしかったのではないかと思う。
(柳 路夫)
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