2012年(平成24年)3月10日号

No.532

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花ある風景(448)

 

市ヶ谷 一郎

 

 日本陸軍初の特別大演習
 

 鎌倉鶴岡八幡宮の拝殿の向かって右、参拝路の降り口山側に『明治天皇閲兵之地』陸軍中将曽我 祐準(すけのり)(兵学頭・陸軍士官学校長など歴任)とある高さ3bほどの石碑が建っている。鎌倉にある史書により終戦前、日本陸軍の天覧(天皇陛下がご覧になる)特別大演習の嚆矢(こうし)(始め)がここにあったのが判った。

 明治6(1873)年4月14日明治天皇は鎌倉に行幸、15日八幡宮社頭において陸軍歩兵の閲兵・分列式。ついで石碑のある八幡宮上の丘に登られ同隊の攻守対攻演習を天覧された。天皇陛下が、京都より東京遷都後、演習天覧のため地方へは行幸されたこと、軍隊を攻守両軍に分けた対抗演習をご覧になったことは陸軍創設以来初めてであり、後年各地の交代で行われた天皇統監の特別大演習の起源になったのである。明治政府は、明治4年より廃藩置県、兵部省より陸・海軍省に分け徴兵令を施行、6年よりは各兵科(歩・騎・砲・工・輜重)に分け徴兵したので今回は初めての新陸軍歩兵隊の演習になる。

 この演習ため、陸軍大輔(大臣)山県 有朋大将が、明治5年11月兵学頭曽我 祐準大佐、並びに御雇教師フランス人エシマンの両名に鎌倉実地踏査を命じ、帯山襟海要害の地として演習に最適との報告を受け、同地を最終演習地と決定、演習部隊は、教導団歩兵第一、第五大隊(当時一個大隊約600名)。演習指揮官は、陸軍大佐曽我 祐準、次官は、陸軍少佐岡本 兵四郎、演習期間は、明治6年2月11日より約70余日として、天皇陛下の御裁可を得た。

 日程として演習隊は、2月11日午前6時出発、品川あたりから、演習をしつつ川崎泊、12日神奈川泊、13日戸塚泊、14日鎌倉着。演習隊本部は八幡宮前旅館に、部隊は、建長寺と光明寺(いずれも鎌倉五山の大寺院)に分宿した。事後、由比ヶ浜を中心とし鎌倉七口の切り通し等を利用し、各種の演習を実施した。

 明治天皇は、4月14日午前6時40分皇居ご出発、新橋ステーションより汽車、神奈川(横浜)ステーションで下車、馬車に乗り替えられ、途中、保土ヶ谷、戸塚で休憩、それより悪路のため、乗馬で鎌倉に到着された。八幡宮司邸を行在所に,翌15日は生憎豪雨であったが少しもお厭いなく午前9時八幡宮社前に臨御、終始端然と演習を統監され、将卒一同恐懼感激したと伝えられる。また、この野営には珍しく軍楽隊も参加、演奏を披露申し上げた。終了後、参拝のご装束に御召替えになり、八幡宮内陣の玉座で奉拝された。翌16日鎌倉宮へご参拝の後、江の島へご巡幸。藤沢で一泊され、17日お帰りになったと記録されている。

 明治38(1905)年3月10日は、日露戦争の奉天会戦で日本陸軍が勝利して奉天に入城した日で、日本陸軍は、陸軍記念日として護国のために散った英霊を偲び、陸軍の弥栄(いやさか)を祈る戦前派には懐かしい日であった。明治維新の大業を終えた明治政府が、陸軍の兵制を整え、必死に日夜訓練を重ねた精華が、遂に日清(明治27・8年)・日露の戦果に繋がったのである。