2012年(平成24年)3月10日号

No.532

銀座一丁目新聞

上へ
茶説
追悼録
花ある風景
競馬徒然草
安全地帯
いこいの広場
ファッションプラザ
山と私
銀座展望台(BLOG)
GINZA点描
銀座俳句道場
広告ニュース
バックナンバー

 

安全地帯(352)

市ヶ谷 一郎(鎌倉在住)


源氏悲劇(続2)
相模波多野の貴公子『源 朝長』


 源 義朝の次男朝長(ともなが)(すぐの異母弟は頼朝)は康治2(1143)年の生まれ、母は相模波多野荘(神奈川県秦野市)波多野 義通の義妹であった。義通は保元の乱で、義朝が命じ、父為義の首を刎ねさせた家人(1月20日号追悼録所載)。朝長は幼少のころから義朝の御曹司とし、松田の御亭(足柄上郡松田町)(約83u)に当時としては上等な茅葺の屋敷に住んで養育されたことが「吾妻鏡」に書いてある。官位も従五位下、中宮少進。波多野氏に松田冠者として丁重に育てられた。ちなみに、異母兄の長男義平は、母の生家三浦氏の所領三崎荘で育つ。父義朝は東国覇権の布石のため、各所にその土地の有力者の縁者を愛妾とし、子を作っていたのである。

 平治元(1159)12月9日夜、平治の乱が勃発した。今度は平 清盛・藤原 信西(しんぜい)派と源 義朝・藤原 信頼(のぶより)派が二条天皇・後白河上皇を巻き込んでの覇権争いである。清盛の熊野詣でで留守にしたのを狙って義朝が一族を率い、上皇の御所三条殿に火を放ち上皇・天皇を幽閉したが、参詣途中、急を聞いた清盛が反転、上皇・天皇を救出し平家の本拠六波羅へ遷幸を仰ぎ追討の宣旨を受け、官軍として義朝軍を破り都の軍事警察権を掌握した。

 敗れた義朝一行は、雪の龍華(りゅうげ)峠を越え琵琶湖の北を回り追撃軍を打ち払いながらかつて覇者であった東国へ向かって敗走する。途中、三男頼朝は、馬上で疲労のためウトウトしてはぐれて捕まってしまい、次男の朝長は、竜華越えの際、比叡山の僧兵に攻められ左腿に重い矢傷を負う。敗残の一行はようやく美濃の青墓(おおはか)(大垣市青墓町)に着く。ここも義朝の愛妾の一人がここの長者の家にいたのである。

 義朝は残兵を集め再挙を図るため、長男義平に北国方面へ下り兵を集め北陸道より、朝長は信濃へ下り、信濃・甲斐の源氏同類を集め上洛せよ、父は東海道を進めると命令する。重傷を負う朝長は、寒さのなか信濃方面に伊吹山の雪のなかを下るが、傷がますますひどく、これ以上進むのが困難となり、父のもとへと戻って来た。父は「この不覚者、嫡男頼朝ならこんなことはしないぞ」(実は頼朝はすでに捕らえられていた)と父の勘気を受けたが、寒さと痛む矢傷に、そのまま敵の手にかかるよりいっそ命を絶とうと決心し、遂に父に介錯を頼む。義朝も「さすがわが子、不覚者ではなかった」と。電光一閃、手を合わせ念仏を唱えている朝長の胸元を三度刺してから首をはね、さらに首を着けて衣類をかけてやったという。(後に首は守役の大谷 忠太が我領の静岡県袋井市三川友永に埋葬)義朝は「保元の乱」では自ら父・兄弟を処刑し、今回わが子を手にかけて白雪を紅に染めた悲運に義朝も涙が止まらなかったであろう。波多野の貴公子、源 朝長は僅か16才を一期に平治の乱の犠牲となって果てた。時は平治元年12月18日であった。われわれ素人は推測するより仕方がないが平治物語や吾妻鏡等さまざまな文献に当時の悲劇が上記のように書かれている。

 筆者は、感じるところあり、某月某日、大垣より支線の美濃赤坂駅で降り、しめ吐く息白く約20分、旧円興寺院跡にある芭蕉の句碑「みののくに朝長の墓にて『苔埋む 蔦のうつつの念仏哉(かな)』」を見ながら更に登った山腹に墓地があった。

      

 朝長の墓は、父義朝、義平の供養塔と並び、ともに苔むした高さ1b程の五輪塔である。あたりは静寂そのもの、冷たい風の吹きぬける山あいのうす暗い淋しい落ち葉の中にあった。粉雪霏々とし墓石に舞い、世が世ならば、源氏智勇の将、義朝の子として優遇され、相模の広大で温和な沃野を疾駆、威風堂々君臨し、源平の決戦にも参加したであろうに。運命の皮肉、惜しむべし。眞に一掬の涙を禁じ得なかった。  合掌。

 記録によれば後日、弟の将軍頼朝も上洛のとき、2度程詣でたようである。

 説明板によれば、京都嵯峨清涼寺の僧が訪れ、読経をしたところ、朝長の亡霊が現れ、自ら脱走のくだり、父の惨死など無念の情を述べ、供養を頼んで消えていくという謡曲「朝長」の解説が書いてあった。

 さて、その後、逃避行の義朝一行は、12月29日渥美半島野間の在地領主で恩顧をかけた長田 忠致のもとに止宿したが、裏切られ不覚にも浴室で殺害された。義朝は、木太刀が一本でもあればと無念を叫んだと伝えられ、今でも名鉄線野間駅近くの野間大坊(大御堂寺)にある義朝の墓には木刀の形の卒塔婆がうず高く積まれ供養されているのが珍しい。さて、翌、正月9日、義朝の首は京都で獄門に晒された。また、長男悪源太といわれた勇猛な義平も捕らえられ六条河原で処刑されたが、明暗は分かれた。囚われた頼朝は清盛の継母、池禅尼の嘆願で幸いにも助命され、伊豆韮山の蛭ガ小島に流されたが、雌伏30年、遂に挙兵、本邦初の武家政権、鎌倉幕府を開いたのである。また、義朝最後の愛妾、常磐御前に抱かれ雪中の逃避行をした牛若(後の義経)は母の清盛への献身により助けられ、長じて源平合戦で本懐を遂げることとなる。

(源氏系図)

清和天皇・・・義家(八幡太郎)―義親―為義―義朝―― 義平(母三浦義明女)
                               |― 朝長(母波多野義通義妹)
                               |― 頼朝(母熱田大宮司季範女)
                               |― 義経(母常磐御前)