八牧美喜子さんの「いのち」(白帝社刊・1996年8月15日発行)を読む。本が出版されてから15年も立つ。大連2中の忘年会(11月27日)の席上、大友親君から頂いた。彼は法政大学在学中第一期特別甲種幹部候補生となり松戸の陸軍工兵学校に入校、終戦時は沖縄に行くべく久留米で待機中であった。剣道部で一緒に剣道を学び、陸士に進んだ私とは何かにつけ話が合う。著書は戦時中、家族とともに特別攻撃隊の隊員達をお世話した日記を中心にしてまとめられている。彼女が14歳から16歳4月までに書き綴った記録である。随所に特攻隊員からの手紙も紹介されている。私の1期先輩の八牧通泰さん(予科22/5・航空)の夫人でもある。
日記には特攻で戦死した陸士57期生の名前が出てくる。桑原嶽著『市谷台に学んだ人々』(文教出版)によれば、「特攻に殉じた有志の武勲は千載の後まで語り継がれてゆかねばならな」として比島方面35名,沖縄方面48名、義烈空挺隊5名、南西方面1名、本土防空3名などの名前が列記してある。57期乙種学生は原町分校(福島県)1年の教育を受け20年春卒業の予定であったが特攻隊編成に備え繰り上げ卒業となった。原町飛行場で襲撃機種の訓練を受けた者は特攻に最適のパイロットであった。57期生の学生たちは八牧さんの宅だけでなく原町に我が家のようにたずねる家を持っていた。斉藤三郎少尉(昭和19年12月19日フイリッピンネグロス島マニラ間戦死)小川陸郎少尉(前記と同じ場所で戦死)小野寺甲子郎少尉(同じ)永田茂壽少尉(昭和19年12月10日比国レイテ島サンイシドロ付近レイテ湾上にて戦死)小山正少尉(昭和20年2月6日フイリッピン・シライ飛行場にて戦死)らの名前が出てくる。
彼らが原町を去る時(昭和19年11月6日)、美喜子さんとお母さんは当時最高の御馳走「あんこ餅」を用意したという。
木下栄壽少尉(昭和21年1月16日・朝鮮咸鏡南道咸興にて戦病死)に触れている。ミス飛行場と言われた女性と相思相愛となる。昭和20年3月58期生の教官として満州に赴任した。今でも歌われている『原町特攻の歌』を作詞した。『さらば元気でいておくれ/永の別れの明日となる/恋の原町あとにして/夢は爆音ああ消えてゆく』
八紘勤皇隊長の山本卓美中尉(昭和19年12月7日・オルモック湾にて特攻戦死)は原町での57期生の教官で、学生たちの尊敬を受けていた。特攻隊長拝命後、遺書は書かないが、最後まで日記を書くと母親に約束され、それを実行された。日記の抜粋が引用されてある。一緒に特攻死した少年飛行13期生全員が彼女の宅に遊びに来ていた。
陸士57期の久木元延秀少尉(昭和19年12月30日フイリッピンミンドロ島サンホセ沖にて特攻戦死)は『麦と兵隊』の踊りが隠し芸であった。原町で覚えたものであった。最後の帰省の時、近所の人たちの宴会の席上その隠し芸を披露したという。昭和49年、原町を始めて訪れたお母さんは「どこで覚えたのか、忘れられません」と話したそうだ。淡々として死地に赴いた特攻勇士の言動には涙せざるにはいられない。
航空の58期生も原町での1ヶ月の訓練中、外出先は57期生たちがお世話になった魚本、松永牛乳店、古山瀬戸屋、丸通支店長大橋友成さん宅などに分散、手厚い接待を受けたという。著者の御主人八牧通泰さんは57期の有志の人たちと発起人となり、昭和46年8月15日、原町飛行場跡に特攻隊の慰霊碑を建立された。293名の戦没者が刻まれている。
『阿武隈の山霧にぬれ秋燕』八牧美喜子
(柳 路夫)
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