2011年(平成23年)12月10日号

No.523

銀座一丁目新聞

ホーム
茶説
追悼録
花ある風景
競馬徒然草
安全地帯
いこいの広場
ファッションプラザ
山と私
銀座展望台(BLOG)
GINZA点描
銀座俳句道場
広告ニュース
バックナンバー

 

花ある風景(439)

 

並木 徹

 

 歌供養鈍行歌手今日も行く
 

 毎日新聞のOBの同人雑誌「ゆうLUCKペン」の第34集発行記年の集いが開かれた(12月9日・一ツ橋パレスサイドビル・アラスカ)。今回のテーマは「流行歌と新聞記者」。面白い原稿がたくさん集まった。『北帰行』の宇田博さんと一高で同じ寮で同室であった整理部OBの山埜井乙彦さんは宇田さんのことを書くなど面白い作品が少なくなかった。
 私の原稿は次のようなものを書いた。

 「スポニチの社長時代、毎日新聞の専門編集委員牧太郎君と組んで一人の女性歌手の歌謡ショーを開いたことがある。空前絶後の新聞社の事業だと思う。これには14年間にわたる新聞記者と女性流行歌手の友情物語が秘められている。昭和63年12月スポニチの社長になった私は紙面の大衆化路線と破天荒な事業を考えた。”破天荒”とは新聞社らしからぬ事業の展開であった。1億円もかけた「アイスランドフェア」、日本で24ヶ所、アメリカで7ヶ所公演する日米合作ミュージカル「愛の労働」(レイバーラブ)など次々にユニークな事業を繰り広げた。平成3年3月、私の名前で「鈍行歌手 北見恭子を励ます会」の案内を各方面へ出した。手元に残っている「会の御案内」を見ながら話を進める。

△日時平成3年4月9日(火)
△場所港区元赤坂2―2―23    「明治記念館」

 『山形生まれのコロンビア専属歌手、北見恭子さんはデビューして昨年で18年。急ぐことなく、地道に、真面目に、演歌一筋の活動を続けてきた頑張り屋です。その努力が認められ昨年末には『浪花夢あかり』(作詞・松井由利夫、作曲・岡千秋)で「第23回全日本有線放送大賞」にノミネートされ、「特別賞」を受賞しました。やはり、昨年10月の「第17回横浜音楽祭]でも「演歌選奨」を受賞しています』。
 これからが興味深い。
 『実は北見恭子さんを鈍行歌手と命名したのは現「サンデー毎日」の牧太郎編集長です。彼は毎日新聞社会部の記者時代の昭和52年社会面に「芸能界ウラのウラのウラ」という長期連載を執筆しました。その時の社会部長が私で、連載記事は芸能界の様々な人間模様を生き生きと描いて反響を呼びました。単行本にもなりました(毎日新聞刊・昭和53年1月30日発行)。連載の最初に取り上げたのがデビュー4年目の北見さんです。私もそうした縁で北見さんのことは忘れられませんでした』

 実は平成2年11月、「サンデー毎日」のグラビヤで北見恭子さんの最近の活躍を知った。行方不明の娘の消息がわかったほどの喜びであった。牧君は取材以後も北見さんを気にかけていた。一度かかわりをもった取材先を大事にするのは名記者の条件の一つである。それとともに鈍行歌手が早く一人前になってくれと祈っていたと思う。社会面での連載から13年、「全日本有線放送大賞」特別賞、横浜音楽祭「演歌選奨」に輝く北見恭子のグラビヤが「サンデー毎日」を飾る。牧編集長の喜ぶ顔が目に浮かぶようであった。月日の流れは速い。昭和52年2月ごろ彼が私に「芸能界をやらしてください」と言ってきた。当時彼は32歳、私は52歳であった。
 聞けば、昨年の12月31日、都はるみがレコード大賞を受賞、その授賞式が行われた帝国劇場に取材に行った際、芸能界の表の顔と裏の顔を見せつけられたのがヒントとなっているという。さらには警視庁クラブ時代捜査4課を担当、芸能プロダクションに絡まる事件も取材したことも彼の目を芸能界へ向かわせる一因でもあった。都はるみの授賞式の取材にしても自分からデスクに名乗りを上げて出かけた。この連載記事は初めから好評であった。

 毎年、デビューする新人歌手数知れず、その新曲だけでも千曲を越す。その中でスタ―街道を進むものわずか。歌も歌手もうたかたのように消えて行く。連載記事で取り上げた北見恭子がめげずたくましく生き延びてきた。そこで早速、牧君に連絡、北見恭子を励ます会を開くことを決めた。すぐ小西良太郎スポニチ編集局長(音楽プロデューサー・俳優)に相談した。事情を聴いた小西編集局長はすぐ動いた。牧君の連載取材の時もそうであった。小西編集局長がすべて段取りをつけて呉れた。小西さんは歌謡界ではよい意味での”ボス“である。彼に面倒を見て貰った歌手、作曲家は数知れない。美空ひばりが亡くなった際、葬儀の一切をとりしきったのは小西さんであった。

 「励ます会」の話が決まってから北見さんとマネージャー明岡茂さん、森本勇編集局次長の3人で武蔵ゴルフクラブ笹井コースでゴルフを楽しんだ。このコースは左右に林があることで有名である。このゴルフで面白いことに気がついた。北見さんは球が林に入っても絶対横に出さいのであった。秋岡さんが「横に出しなさい」と言っても聞かない。前方の林のわずかな隙間をめがけて球を打つ。球は木にあたる。それでも横には出さない。何回も同じことを繰り返した。まことに頑固で意地っ張りである。牧記者は「新幹線歌手」に見せる“怨“の裏返しと見た。いい意味では可能な限り道を開くため挑戦するということであろう。その気持ちが今日まで彼女を支えて来たのだと思った。

 案内文は続く。
『鈍行歌手と言われてきた北見さんにやっと陽があたってこれから大きく花が開きそうなきがします。今月21日には受賞曲「浪花夢あかり」と同じ作詞、作曲者による新曲「春の夢」が発売されます。この曲は今までにない北見さんの明るく、キュート名面を前面に出したものだそうです。そこで来年の「デビュー20年』に向け、大いなる期待を込めて、北見さんを「励ます会」を開くことにいたしました』

 集まった300人のお客の前で鈍行歌手北見恭子は歌った。
「酒場おんな歌」「おんな川」「浪花夢あかり」すべて初めて聞く歌ばかりであった。苦節18年、その苦労、努力を思う時、私はこみ上げるものを抑えかねた。目をつぶる瞼の裏に林の中に入れた球をわずかな前方の木の隙間めがけて打つ「愚直な女の姿」が浮かんだ。その後北見恭子は大きく成長した。もともと小さい頃から歌を歌うのが大好きであった。中学1年生の時に山形放送『花の民謡相撲』ラジオコンテスト入賞。高校2年生で山形放送『ミス民謡コンクール』優勝している。昭和58年に作曲家・船村徹に師事し、「オホーツク流れ唄」(作詞星野哲朗、作曲・船村徹)等を出している。平成4年2月発売の「紅の舟唄」(作詞:松井由利夫、作曲:岡千秋、)が60万枚のヒットとなっている。どうしたら歌はヒットするのか。私に言わせれば「神様のきまぐれ」と言うほかない。

 理屈をこねれば歌手の表現力、時代の要求、阿久悠流にいえば壁にぶつかって跳ね返ってくる言葉が時代に応える。それに作る側の熱意等が総合して生まれるというところであろうか。

 船村徹は毎年うたかたのように消えて行く何千何万という歌のために毎年自分の誕生日、6月12日に合わせて東京・護国寺で「歌供養」を開く。船村徹は「歌供養」が歳時記に6月の季語として残ってくれるのを望んでいる。

 「歌供養鈍行歌手今日も行く」悠々