2010年(平成23年)3月1日号

No.496

銀座一丁目新聞

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追悼録(410)

孫から見た祖父


7歳年下の実弟敏夫が亡くなった(2月21日・享年79歳)。3人の男の子に恵まれた。子供が健康優良児に育つようにと言うので長男は健(昭和35年3月生)、二男は康(37年1月生)三男は良(昭和44年4月生)と名前をつけた。私と同じく毎日新聞に務めた。最後は山形支局長(昭和62年1月定年退職する)であった。通信部時代山ほど原稿を書き熱心に努力したおかげであろう。

新聞記者時代仕事に熱中し酒ばかり飲んで家庭を顧みなかったせいで子供たちの様子を見ていると3人とも実に家庭的である。我が家と同じく敏夫を反面教師としたようである。それだけ奥さんの澄江さんが苦労した。優秀な新聞記者の奥さんは素晴らしい人であるのは定評のあるところである。くしくも通夜の日が結婚53回目の結婚記念日であった。敏夫は「お祝いのケーキを買ってくるよ」と言いていたという。子供ら3人ともすでに結婚し4人の孫もいる。その孫の一人渉(早稲田大学理工2年生)が告別式の際「孫から見た祖父」と題して弔辞を読んだ。

『私が学校に行くとき、「行ってきます」と言うと「おう、言ってこいよ」と左ひじを机につき、右手を挙げて合図をしてくれました。帰ってくる時もいつも同じような様子で迎えてくれました。もうそんな姿がないのはすごくさびしいです。孫の私から見て、典型的な昭和の亭主関白な人でした。毎日新聞に務めて定年まで真面目に一筋でした。自分の言うことは絶対で家族と意見が違うことが多々あり、喧嘩は日常茶飯事でした。自分の好きな漬物がないと祖母に「なんでないんだ。買ってこい」と怒り、雪の中祖母は買いに行くこともあったそうです。気の強い祖父ですがそれは自分が毎日新聞で記者として働き一家を養っている誇りが自分の自信につながっていたのだと思います。私はその祖父の誇りを尊敬しています。大倉潔(澄江さんの父親)が亡くなった時にその様子を祖父が文で書き綴っていたのを読み、やはり祖父は新聞記者なのだと感じました。文の入り方などからものすごい文章力を感じました。祖父は生前に「銀座一丁目新聞」で記事を書いていました。持前の語彙力を生かし、暇な時間は熟語や四字熟語、ことわざをあてはめてよみといていくナンクロをよくやっていて、スラスラ解いてゆくその語彙力にはいつも驚かされました。ナンクロには景品が当たる抽選で当たるので、カニや旅行券を当ててくれと毎回お願いしていました。頑固な祖父も年を重ねるごとにだんだんまるくなっていき、孫にはとても優しい人でした。昔ならレビのチャンネルを絶対に譲らない祖父が孫の私には譲ってくれたり、母から聞いた話には私が幼いころ私のおむつを替えてくれたそうで、祖母は自分の子供のは換えなかったのにと不満を言っていたそうです。心配性な人だったので、親族の心配はいつもしていました。長男の健が兄弟で最後の結婚した時は兄弟3人とも結婚できて本当に安心だと言っていました。私が進学のために上京した時には「俺の家は親族ならみんな自分の家のように使っていいんだから遠慮するなよ」と気遣いを忘れない人でした。特に僕の弟は可愛かったみたいで、いつも弟の話をするとうれしいそうに笑うのをよく覚えています。世間の物事にも真剣に向き合うくらい真面目で、テレビのニュース等に対して不満を言ったりいつもテレビ越しに政治家と喧嘩をしていました。高校野球観戦の時がその真骨頂で「なんで打ち上げるんだよ」「バンドもできないのか」と記者になるのはお決まりでした。食生活では漬物が大好きで祖母がどんなに一生懸命料理を作っても食卓で一番おいしいというものは決まって漬物でした。祖父は祖母と喧嘩は多かったのですが、やはりどこか頼っていて信頼して感謝しているのが伝わってきました。昨年祖母が入院した時は私と祖父の二人きりで家にいたのですがなんだかやっぱりさびしいなと漏らしていました。祖母への感謝の気持ちは手記にも多く記されております。私が高校の時、祖父の具合が良くないと聞かされ、4歳のころからずっと沖縄に住んでいた私はとても心配でした。その時から、何とか私が東京の大学に進学して一緒に暮らせるまで元気でいてくれることを願っていたので入学するまで、元気だったときはとても安心しました。心配性の祖父は私の大学生活に関する多く心配してくれていました。学校へ行く前は時計を持ったか。財布は持ったかなどです。私が何回か忘れたので毎回言っていました。そうすると祖母はそんなに心配せんでもいいから、と言うといつもの言い争いが始まるのでした。今思えばそんなやり取りが懐かしく思います。しかし病は徐々に進行していき、昨年の冬ごろに倒れてしまいました。いつもリビングの中心の席にどっかりと座っていた祖父がいないのを見るとなんだかすごくさみしくて。身動きが自由に取れない祖父に対して祖母は常についていて祖父がああだこうだ言うこともいつもはい、はい、と最後まで聞いていた祖母の姿を見ると祖父は本当に祖母と結婚して幸せだったのだなあと感じます。祖父がいなくなった今NHKで高校野球中継が始まるころには私はさみしさをより一層感じるでしょう。5人家族を養い、私から見た祖父はとても誠実で人情に厚く男気のある人でした。祖父がこれまで人生の節目節目で書いてきた手記を読むと書く力と言うものをすごく思い知らされます。文章でこんなにも人に物事を伝えることができるのだと祖父にはすごく教えられました私が祖父について文章を懸けるのは祖父が私を息子のように育ててくれたからだと思います今まで本当にありがとうございました。そしてお疲れ様。これからも私たちを見守っていてください』


(柳 路夫)