2011年(平成23年)1月1日号

No.490

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茶説

「命の連鎖」と子守歌
 

牧念人 悠々

  毎月、靖国神社に参拝する。社頭に掲示される英霊の遺書には感動させられる。今年も同台経済懇話会の一員として会員と共に昇殿参拝する(1月6日)。昨年1月の社頭掲示の遺書「僕は唱歌が下手でした」には泣かされた。この時この方は母の子守歌を思い浮かべたのではないだろうかと思った。遺書を残されたのは、陸軍憲兵曹長、佐藤源治命。昭和23年9月22日ジャワ島バタビヤにて法務死を遂げられた。岩手県出身で32歳であった。当時「銀座展望台」(平成22年1月7日・木曜日・晴)に次のように書いた。

『▲明治天皇御製(明治39年)
「五十鈴川 としたつ波に みそぎして にごりなき世を まず祷るかな」

 ジャワ、スマトラ、ボルネオ、セレベスなど蘭領印度は戦時中、日本軍にとって南方圏の兵站基地であった。大規模な作戦や戦闘もなく、進出、占領し軍政をひいた。人口7千万人のジャワ全島で警備に当たる兵力はわずか5,6百人にすぎなかった。憲兵800人がジャワ全島に分散して「防諜」「治安」にあたった。憲兵は住民から怖がられる存在であった。このため敗戦後、報復の的は憲兵に向けられた。ジャワ・バタビア裁判では事案は109件、被告は359名を数えた。裁判は昭和21年8月5日から始められ昭和24年10月24日で終わった。この間、死刑判決は64名に下された(岩川隆著「孤島の土となるとも」―BC級戦争裁判―講談社)。

 遺書は5行詩で4番まである。3番の詩は「故郷を出から12年/冷たい風の獄の窓/虫の音聞いて月を見て/母さん恋しいと歌ったら/みんな泣いて聞きました」(昭和23年6月23日)とある。この詩を作ってからちょうど3ヶ月後に処刑された』

1番は
「僕は唱歌が下手でした
通信簿の乙一つ
いまいましさに人知れず
お稽古するとお母さんが
やさしく教えてくれました」とある。

「母恋しい」と歌ったそのお母さんは佐藤源治さんが赤ん坊の時、子守歌を歌って聞かせたに違いない。岩手の子守歌は『江戸の子守歌』とよく似ているが違う。

「ねんねん ねんねこ
子守リァどこさ往く
山越えて里さ往く
たにしこ いわしこ 京の菓子
ねんねこ ねんねこしャァい」

 「日本子守歌協会」の代表、西館好子さんは「時代は刻々と変化して行く。しかし、母と子の関係が根本から変わるとは思わない。産む、産まれると言う『命の連鎖』は永久に続く。人間の誕生に歌われる賛歌を忘れる事がないようにしたい」という。