2011年(平成23年)1月1日号

No.490

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追悼録(404)

「防人の道標」の続編


 同期生・永渕寿人君(福岡県小郡市在住)が先に出した「防人の道標」の続編を書いた(平成22年8月・発行・10ページ)。「はじめ」に永渕君はいう。「明治以来、身を挺して困難にあたり戦死下方々の慰霊顕彰は如何に行われて来たか、平成19年カラ2ヶ年筑後・佐賀東部地区、24ヶ市町村180の慰霊碑・忠魂碑と防人の館・自衛隊駐屯地7ヶ所を訪ね『防人の道標』を発行しました。この間感銘は深く、大きく、その後引き続き訪ね歩き、このたび近隣地域(7)と前編追加分(2)を含めて発行します」。

 場所は1,福岡県護国神社、2,佐賀県護国神社、3,爆弾3勇士 軍神北川陸軍伍長、4,爆弾3勇士 軍神作江陸軍伍長、5,陸軍墓地、6,門司港出征記念の碑、7,硫黄島戦没者の碑、8,大刀洗平和記念館新館竣工(前編追加)、9,爆弾3勇士 軍神江下陸軍伍長の原型復元(前編追加)

 今回もこの冊子は同期生の野俣明君(北海道恵庭市在住)が送ってくれた。永渕君とは平成21年10月、東京・浅草で開かれた『全国大会』ではじめて会い、その業績の素晴らしいことを前沢功君と共に激賞した。彼は『当然のことをしたまでです』と笑っていた。

 福岡県護国神社は福岡市中央区六本松にある。英霊は11万5千余を祀る。ご祭神は福岡県関係の殉国野英霊であるが他県の多くが殉職自衛官も合祀しているのに合祀していない。佐賀県護国神社(佐賀市川原町)、ご祭神は佐賀の乱、西南の役、日清・日露戦争から大東亜戦争に至る佐賀県の殉国の英霊のほか自衛隊殉職者33名を含めて35599柱である。昭和36年4月には天皇、皇后両陛下がご親拝された。

 軍神 北川丞陸軍伍長 木挽き職であった北川伍長は久留米工兵大隊18大隊に入隊昭和7年2月22日上海廟行鎮で戦死(当時21歳)、その銅像は三柱神社地内に忠魂碑と共にある。銅像は一時拠出されたが昭和43年5月長崎県佐々町老人クラブにより『平和の礎』として再建された。軍神北川丞記念館は実家に隣接してある。はじめは北川家により木造として建てられたが、昭和53年有志の協力により鉄筋の記念館として再建された。軍神の遺品、写真を始め賞状、感状葬儀の際の工兵18大隊長・村長野弔辞などが展示されている。

 軍神 作江伊之助伍長 運送店に勤務していた作江伍長は久留米工兵18大隊に入隊、昭和7年2月22日上海廟行鎮で戦死(当時21歳)長崎県平戸市田助浦の天柱寺の墓地に『作江家の派か』と『陸軍伍長作江伊之助の派か』が昭和9年2月に建立された。田助浦を見渡す丘の上にある300坪余りのところに『忠烈作江伊之助君の碑』(昭和10年5月7日建立・陸軍大将植田謹書)がある。

 門司港出征記念の碑 門司港駅西側岸壁にある。平成21年に竣工した。平成11年ごろから郷土の復員者から運動がすすめられ、遺族会、ライオンズクラブ、偕行会員、自衛隊隊友会,第40普通科連隊が募金に賛同、建設委員会も結成された。

 碑文―ご存知ですか、先の大戦中この門司港岸壁から200万人の将兵が、はるか南方の戦線に、あるいは大陸の戦地へ赴いたことを・・・・そして半数の100万人の将兵は再びこの地を踏むことができなかったことを・・・・門司港の山河を日本最後の風景としてその目に焼き付け,遠く離れた戦線に向かった。多くの将兵を偲び、恒久平和を思う不戦の誓いを込めてここに「門司港出征記念の碑」を立てました。近代日本の黎明期から門司港の発展に、子の港湾が重要な役割を果たし敵ましたが、この碑を忘れてはならない。

 戦後65年日本人は平和に慣れ、戦争のあった過去を忘れてしまった。国のために戦い戦死された英霊を偲び顕彰するのは日本人として当然の務めである。その意味で永淵君の「防人の道標」は貴重な資料である。


(柳 路夫)