2011年(平成23年)1月1日号

No.490

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山と私

(70) 国分 リン

―  ボランティアをした「谷川岳・肩の小屋」―

        わが夫の 思い重ねし 谷川

        春浅くして 蒼天に聳つ

        谷 川 岳

        カラコルムの夢は 潰えて 滝沢の

        雪に眠りて 岳友は帰らず     「肩の小屋」食堂の額より

 

 谷川岳は、群馬県利根郡水上町と新潟県南魚沼郡湯沢町の境の三国山脈にある山で元来、この山はトマとオキの二つ耳(2つの頂上)と呼ばれ、谷川岳の名はそもそも、隣の俎嵒に与えられていたが、国土地理院の地図に誤記の為、トマとオキの二つの耳が谷川岳と呼ばれるようになったらしい。トマの耳(標高1963m)には薬師岳、オキの耳には谷川富士の別称があり、広義には一の倉岳など周囲の山域も含めて谷川岳と呼ぶこともある。一の倉沢など谷川岳の岩場は、その険しさから剣岳・穂高岳と共に日本三大岩場の一つに数えられ、ロッククライミングのメッカとなっている。谷川岳の標高は2000mに満たないが、急峻な岸壁と複雑な地形に加えて、中央分水嶺の為に天候の変化も激しく、遭難者の数は群を抜いて多く、谷川岳遭難事故記録によると、2005年迄に781人もの死者が出て、ちなみにエベレストの遭難者は、2005年迄で178人であり世界のワースト記録である。かつて多くの遭難者をだしたことから「魔の山」と呼ばれている谷川岳を、これらの不慮の事故発生を防止し、かけがえのない尊い命を守るため「群馬県谷川岳遭難防止条例」が制定されたと、Wikiに掲載されていた。

 スポニチ登山学校仲間のNさんから「八木原先生から谷川岳でボランティア出来る方募集」で、10月23,24日に、登山学校8期のTさんと2人で決定した。登山学校時代は3月と5月の積雪期に何度か講師の指導を受けながらピッケル・アイゼンワークで必死に登り、親友の故Fさんと最期に登った山の記憶が鮮明だ。

 10月23日朝から青空が広がり、ニュースの谷川岳の紅葉で上毛高原駅は大賑わい。バスで行くとロープウエー乗り場が混雑して時間が掛かると情報があり、相乗りならバスより安いと聞き、即タクシーに決め、土合へ9時到着し、スムーズに天神平到着。
リフトで天神峠1485mまで、Tさん「リフト始めて!」ここから標高差492mを登る。

 周りの紅葉を見ながらの空中散歩は気分が良い。ここから20分尾根を歩くと、上りと天神平への下りの分岐にでて、紅葉を満喫しながらの下山が観光コースのようだ。私たちはいよいよ本格的な登りになり快調に歩くと、熊沢穴避難小屋へ到着、大勢の登山客が休憩をしていた。休まず登りだすと、鎖があり岩がごろごろの道をTさんは軽く、私は必死で登り、天狗の溜まり場の大岩に着き、上で万歳をする人-、青空に溶け込み、周囲の山並みが見え皆楽しそうだ。熊笹に覆われた登山道は岩の階段状で行列を作り登っていく。小屋へ30分のところでゆっくり景色を見ながらお昼を食べた。最後の急騰を一歩一歩登ると肩の小屋到着。大勢の登山客にびっくりした。肩の小屋管理人の馬場保男氏に挨拶した。ボランティアは「登山者にアンケート依頼」とのことで、机に用紙を並べて始めた。年齢・男女別・前日宿泊先・回数・出発地・コース等の質問であった。馬場氏は群馬県警山岳救助隊になくてはならない人として多くの岳人に知られてきた人である。八木原先生の高校山岳部の後輩として指導を受け、冬の谷川岳を登った際、警備隊と出会い、「好きな山を職場に人命救助に貢献できる。自分にはこれしかない」と、1967年に県警に入り、1993年には警備隊長に就任されたと聞く。冬山遭難では、2m近い積雪の中で、体重70Kgを越す遭難者を担ぐこともある。「遭難救助は55歳が限界」と奥様に了解をえて2003年退職され、肩の小屋管理人なり、小屋の経営と食事や掃除は勿論谷川岳を知り尽くした方しかできないアドバイス、多くの岳人たちには心強い馬場氏である。午後3時頃になると、急に寒くなり登山客も少なくなり、アンケートも300枚近く集まり、片づけて小屋の中へ入った。すでに馬場氏は夕食の準備にかかっていた。ヘルメットを持ち岩登りからの帰りらしく、馬場氏に挨拶すると、顔馴染みのようで直ぐ、「飲んで」とお酒が出てきたのには驚いた。すっかり周囲は静まり、浅間山や皇海山も雲海の上に夕日でピンクに染まり、この夕景は感動の一コマである。ぽつぽつと宿泊客が増え、「手伝わせてください」始めての山小屋の裏方へ、料理は馬場氏がすべて調理済みなので盛り付けをして食堂に配膳、温かい内に食べてもらう心遣いに頭が下がる。予約のない客も受け入れなくてはならない山小屋は大変だ。大きな圧力鍋でお米を研ぎ、急きょご飯を炊き、味噌汁も増量する。暗くなっての宿泊客にも親切で、結局40人近い宿泊客になった。 後片付けが済み私たちの夕食は20時になっていた。食事が済むと馬場氏はもう朝食の準備を始めていた。今日の寝床は非常用の屋根裏部屋である。ザックの重さが問題な私たちシニア世代にとって、山登り計画では、山小屋は重要なキーポイントになる。数多くの山小屋に世話になり、始めての裏方体験が出来たのは貴重だ。

 10月24日4時の目覚ましに起こされて慌てて厨房に入ると、馬場氏がすでに朝食準備を済ませていた。山小屋の朝は早く、既に出発した客もあり、20分ほどの頂上でご来光をと出掛けた客が大勢いた。私もTさんと馬場氏にお願いをしてモルゲンロートを見に頂上へ、赤く焼けた周囲に、上州武尊山の横に金色に輝いた一点、いよいよと期待したら、次第に白みかけ周囲が明るくなり、薄雲が邪魔をして残念だった。

 小屋へ戻り手伝いを済ませ、のんびりゆっくり山の朝の景色に埋没したのは始めてだ。机にアンケートを準備し、待っていると前日避難小屋泊まりの登山客が一番乗りだ。天気予報は今日まで晴れなので、一番発のロープウエーでの登山客が10時頃には大勢登ってきた。昨日から印象に残る登山客は毎年登っている83歳の男性、子供4人を連れた家族、山ガールの単独行、20代にさんざん岩登りをした60歳代男性グループや、若い男性グループ、背負子に子供を連れた若夫婦、100名山ブームの滋賀の5,60代の団体さん等である。昨日のような雲海にならず、天気も下り坂になってきた。13時頃までアンケート調査をして、前日と合わせ約500枚弱を馬場氏に渡した。私所属のエーデルワイスクラブは、故坂倉登紀子会長が始めて西黒尾根から谷川へ登った時に薄雪草に出会い、大感激をして1955年エーデルワイスクラブを作られたという。馬場氏に来年薄雪草の時期に必ずまた谷川へ登ることを約束し、お礼をして下山した。

 今回の谷川岳は好天に恵まれ、馬場氏の暖かい人柄に出会え、仲間のTさんと楽しく登れ、行動でき、素晴しい山の魅力・風景に感動できて幸せだった。