2010年(平成22年)10月1日号

No.481

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花ある風景(396)

並木 徹

 三菱一号館美術展に感銘する

 三菱一号館美術館開館記念展(2)「三菱が夢見た美術館」をみる(9月28日)。見たいものがあった。それは岸田劉生の「麗子像」であった。先に友人の霜田昭治君と見た三井美術館での展覧会で、ある仏像から思い出したからである。今回も霜田君と一緒であった。ところが、思いもかけず黒田清輝の「裸体婦人像」があった。『あっ』と声をあげた。明治34年の作品。この絵は展覧会で絵の下の部分を布で隠して展示され、当時「腰巻事件」と騒がれた。かねてから問題の現物の絵を拝見したいものだと思っていた。女性美漂うきれいな絵であった。布で隠したなどとは想像できない。男女共演の演劇が黙認されたのは明治24年11月というから無理もないか。黒田画伯は明治28年4月、京都で開かれた第4回内国勧業博覧会に出品した「朝妝」(朝化粧のこと)の裸体画でも騒がれている。この絵は西園寺公望の実弟・住友春翠の所蔵となり、昭和20年の空襲で焼失している。劉生の童女像「麗子花を持てる」(大正10年の作)をとくと見た。右手に持つ赤い花よりも私にはおかっぱ頭になぜがひかれる。この時、麗子は7歳である。麗子の子供で画家の岸田夏子は「麗子像」は母親と似ていないという。「劉生はそこにあるものを、ただそっくり描こうとしたのではなく、モデルに愛と美を感じて美の創造を試みた」と言う(澤地久枝著『画家の妻たち』・文芸春秋)。次に目に付いたのが岩崎弥太郎の書「猛虎一声山月高」である。達筆である。力強さもあり柔らかさもある。人物の大きさを示している。北宋の詩人,周紫芝の七言絶句の結語であるという。題は『蒋山の栖霞寺に宿りて』。「夜更けに暖をとりつつ独座していると、突然、静寂を破って虎の一声が響き渡った。外を見れば、山上高く月が輝いている』と言う内容。弥太郎は自分自身を虎になぞらえたのであろう。この虎はさぞかし大きな事業を為したのに違いない。弥太郎は漢詩漢文に堪能であった。日記を漢文で書いた。

 古地図も興味深かった。1595年のL・ティセイラの「日本島」、これは今から400年前の日本地図で『行基図』を手本にしたものと考えられている。1570年のアブラハム・オルテリウスの「アジア新図」、1682年のG=C=D=ヴィニョラの「中華帝国図」、1794年のエドム・マンテル、ピェールガ・ブリエル・シャンレールの「帝政中国図」等を比較してみると面白い。興味深深たる展覧会であった。勉強せねばならいことがいっぱいできた。