同期生・上田廣君が亡くなった(9月5日・享年85歳)。熊本幼年学校以来の親友・花田隆君が1ヶ月前に病院に見舞いに行った際には顔色もよく元気そうであったという。家族の話では末期がんで長くはないと医者から言われ覚悟をしていたそうだ。上田君は60期生の指導生徒を務めたほど頭もよく、豪傑肌であった。終戦時には学校本部からひそかに頼まれて予科士官学校、陸軍省等に情報収集にあたったと聞いた。戦後何回か開いた区隊会には顔を見せた。平成11年から2年間兄の四郎さんと共に東大史料編纂所の明治維新のゼミに毎回熱心に出席している。使われたテキストが上田兄弟の持ち込んだ曾祖父・肥後藩士上田久兵衛の書状であったからである。このころの上田君の顔は輝いていた。
「今、東大の暦史編纂所に通っている」と楽しそうであった。ゼミの宮地正人教授に話によれば「読解、熊本方言の解釈、書状中の語彙ついて発言した」ということである。このゼミの成果が宮地正人編解説「幕末京都の政局と朝廷―肥後藩留守居役の書状と日記から見た」(名著刊行会・2002年3月29日発行)となった。その中で宮地さんは「幕末維新期の研究も、いいかげんに幕府対薩長同盟の図式でのみ叙述される段階を脱すべきであろう。他の諸藩もそれぞれの藩是のもとに、必死でその実現を目指した活動を展開していた、これらの相互関連をきちんと踏まえたうえでの政治過程の分析でなければ薩摩や長州の本当の姿が浮かんでこない」と指摘している。上田廣君は兄とともに良い本の出版に協力されたものである。
気配りする男でもあった。中国の旅行に行った際に必ずお土産を頂いた。今も書斎に諸葛孔明の書「寧靜致遠〕の拓本がかかっている。これは「非寧靜無以致遠〕の略で「安らかに国を治めないで遠方の民を従え来さすことができない」という意味である。おかげで勉強をした。ともかくいつまでもお互いに切磋琢磨しようという友人の友情と受け取った。心からご冥福を祈る。
(柳 路夫) |