2010年(平成22年)5月10日号

No.467

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追悼録(383)

大書『戦争考』を出した友人鳥居崇君逝く
 

 友人鳥居崇君が死んだ(4月20日・享年84歳)。平成21年2月、505ページもある大書「戦争考」(新葉館出版)を出した際、手紙や電話でやり取りしその本の感想を本誌の平成21年2月20日号「花ある風景」に取り上げた。彼が歴史から学んだのは「戦争はしてはならない」と「戦争に負けてはならない」ということであった。「まったく同感である」と手紙で彼に伝えた。この本が彼の遺言となった。これまで2年ごとに開かれる同期生の全国大会には必ず出席、その都度,近況を伝えあった。私の母の実家が愛知県岡崎市にあり、戦後はそこに復員した。愛知県半田の出身である彼に親近感を抱いていた。昨年10月、東京で開かれた全国大会には出席の予定であったのが直前に体調を崩して欠席した。
 彼は同期生の中でも米軍と実際に戦闘をした数少ない体験者の一人である。昭和20年2月から3月にかけて高射兵の鳥居君は大阪の第3高射師団に隊付きをした。4,5名の同期生と戦闘配置についている高射部隊に配属され、実戦部隊と寝食を共にした。昭和20年3月13日、大阪がB29の初の夜間大空襲を受けた。被害は大きく、西、浪速両区はほとんど全滅、南、天王寺、東、港、西成、大正各区も大部分が焼けた。鳥居君のいる高射部隊はとどろく爆音めがけて打ちまくった。B29から焼夷弾が降り注ぐ中を鳥居士官候補生は一晩中、無我夢中で高射砲の砲弾を運び続けた。翌朝、師団司令部に出頭する途中、焼け野原となった市街に無残な焼死体が散乱している惨状を見て必勝の信念が揺らいだのを覚えていると「戦争考」に書いている。歩兵の私は40名の同期生と中部4部隊(岐阜68連隊)へ隊付きした。3月中旬の名古屋が大空襲を受けた直後、非常呼集で起こされて出動、遺体の処理の手伝いをした程度であった。
 戦後、教職の道に進み、52年間勤める。父親が小学校の先生であったから当然のことかもしれない。それにしてもよく師範学校に入学できたものと思う。同期生の一人は師範学校に合格しながら「陸士在学」を問題視され入学を拒否されて、やむなく阪大医学部入学、医者の道に進んだ者もいる。ともあれ、鳥居崇君を偲んでもう一度『戦争考』を読み返している。70歳を過ぎてから“戦争論”を研究したものだと今更のように感心する。
 

(柳 路夫)