2010年(平成22年)5月10日号

No.467

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花ある風景(382)

並木 徹

 最後の権現山の碑前祭

 
 恒例の長野県佐久市の権現山の碑前祭に参加する(4月28日)。今年が最後とあって北海道、東海から同期生28名が姿を見せた。東京は雨であったが現地は快晴、桜は満開であった。この地を公園化する案がいよいよ具体化することになった。参列された柳田清二佐久市長が全面的に推進すると言明、さらに、この碑を建てた依田英房さんの孫・依田光生さん、坂本久男前佐久市議会議員も協力を惜しまないと約束。安部光亮59会代表幹事が謝意を述べた。最後の碑前祭とあって朝日新聞、信濃毎日新聞、地元新聞の記者たちからの取材を受けた。
 私たちも80歳を過ぎて元南御牧村村長、依田英房さんが私財を投じて立てた「皇居遥拝跡」(昭和41年建立)、私たちが立てた「依田英房翁顕彰碑」(昭和42年4月建立)、植えた100本の桜の木の維持が難しくなってきた。
 私たち59期の地上兵科が望月町(当時)を中心にして各村の国民学校に「長期演習」の名目で、この地にいたのは昭和20年6月から8月の2ヶ月に過ぎない。南御牧村の国民学校に寝起きしたのは15中隊と16中隊の歩兵4区隊である。これら歩兵の士官候補生たちが朝な夕なに皇居を遥拝したのが権現山であった。その姿を心に留められた依田さんが士官学校の生徒たちの殉皇の姿を世に伝えることによって日本再建の糧として青少年への訓えにしようとされた。しかも世の中が落ち着いた戦後21年後にその碑を建設された。碑には次のようにつづられている。
 「八月十五日万世泰平ノ聖詔ヲ奉ジテ遂ニ皇軍悉クガ矛ヲ止ムルニ至ヤ当隊亦斯ノ山上ニ慟哭解体シテ遂二四散ニ及ビタリ爾来茲ニ二十年刻シテ其ノ芳ヲ後昆ニ流フ」。
 山を降りた士官候補生たちは「士官候補生の矜持」を忘れずに戦後、進学・就職それぞれの道に進み、日本再建のために力を尽くした。英房翁の志を立派に果たしたと思う。さらに若者たちが後に続くのを期待したい。この碑の拓本が神奈川県座間にある自衛隊座間分屯地の「陸軍士官学校資料室」に保存されている。
 昼食は例のごとく『佐久ホテル』。花岡郁夫君(作久市在住)から般若経の写経と切り絵を頂く。その器用さとその根気のよさに驚く。「表装すると立派に見える」と照れながら語る。長く学校の先生をしていたという。北海道から来た野俣明君には前日に会い、軍事評論家・佐藤守さんを紹介された。佐藤さんは情報通であった。名古屋の尾関基君からは昨年『戦争考』の大書を出版した鳥居崇君が死去、4月25日通夜、26日告別式があったと知らされた。体調を崩したという話は聞いていたが予科で同じ中隊の同じ区隊で過ごした鳥居君の死は悲しい知らせであった。
 昼食後に「花は雨に 散るとも知らで 鳴く蛙」の句を紹介した一文を頂いた。この句は箸袋にも書かれてあった。それによると、安永元年(註・1772年・田沼意次老中となる)伊勢神宮神主、杉本宗大夫が当館で一夜を過ごされた際、14代当主,篠沢佐吾衛門包淑に贈ったものとある。現在は18代目が当主である。歌を詠んでから238年も立つ。『一文』には「散ってゆく桜を惜しみながらも、煙るような春雨に包まれた田園の風光を娯しんでいる様子が生き生きと映し出されている.(略)230年余の年月を経て,雨に煙る桜を偲ぶことを可能にさせて呉れたこの一句の功に賛嘆の声を上げると同時に、かの権現山の桜も、何十年の後までも、この句のように高い香りとインパクトとを佐久の地に残して貰いたいと密かに念じてやまない」とあった。別に聞く必要もないが、この一文の作者は山内長昌君であろう。最後の碑前祭のために『一文』を用意してさりげなく配るその心配りが嬉しかった。