2010年(平成22年)3月1日号

No.460

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追悼録(376)

ショパン生誕200年に感あり
 

 今年は「ショパンイヤー」である。ショパンが生まれて200年に当たる。東京・中央区に「ショパン」という名の喫茶店があって一日中ショパンのレコードを聞かせる(NHKテレビニュースより)。店の歴史も古く常連客がショパンを楽しんでいるという。ショパンは1810年3月1日、ポーランドの首都ワルシャワの近くの町で生まれた。父親は教師で母親は天才的なピアニストであった。子供のころから神童といわれる。
 彼の『軍隊ポロネーズ』(第3番・イ長調作品44番の1)が好きである。ラッパの音、太鼓の響きに血が沸き、心が躍る。練兵場に集合した軍隊が整然と行進する様子を思う。あたかも自分もその中にいる感じがする。ショパンが故国に寄せる愛国心の発露であると解説される。『英雄ポロネーズ』もいい。
 ショパンの『英雄ポロネーズ』(第6番・変イ長調・作品53番)にからむ悲話がある。時は昭和20年5月7日、ドイツ無条件降伏直後。場所は大連、当時の大連市長別宮秀夫さん宅。深夜にドイツUボートの乗組員12,3名の海軍士官が足を忍ばせて訪れた。別宮市長は取って置きの酒を振舞い。夫人の寿賀さんと長女の綾子さんは貯蔵品を総動員して接待した。士官の一人がピアノに目を留めた。許しを請うてショパンの即興曲を演奏した。情感豊かな、力強いすばらしい演奏であった。想像するに、2番はハネカーが『過去のやさしい恩愛を悲しげに黙想する一個のバラードである』と評したように敗戦に打ちひしがれているドイツ海軍士官の心境を訴えるかのようであったであろう。最後に海軍士官が弾いた曲は『英雄ポロネーズ』であった。国敗れて英雄の心事誰が知る・・・・別れに際して寿賀夫人は海軍士官の一人に香水の小さいビンをお土産に渡したという(富永孝子著『遺言なき自決』−大連載後の日本人市長別宮秀夫より)。
 杜甫の詩『春望』に言う。『国破れて山河あり 城春にして草木深し 時に感じては花も涙を灌ぎ 別れを恨んで鳥にも心を驚かす 烽火三月に連なり 家書万金にあたる 白頭掻けば更に短く すべて簪に勝えざらんと欲す』
 その後のドイツ海軍士官の消息は不明である。ショパンは「英雄ポロネーズ」を作ってから9年後の1849年10月19日にこの世を去った。二週間後の行われた葬儀にはモーツアルトの鎮魂曲が奏楽されたという。ショパンが死んで161年後の日本でショパンの音楽を聞き、ショパンをしのぶ日本人がいる。もって瞑すべしである。  
 

(柳 路夫)