2010年(平成22年)3月1日号

No.460

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山と私

(61)
国分 リン

――初滑り「蔵王スキー」――

 暮れの新宿西口22時、若者たちの雑踏の中、ザックを担いだ場違いの私たち5人の平均年齢は72歳、スキーツアー夜行バスの集合場所風景である。正月を一人で過ごすより山の仲間たちと、蔵王スキー場を中心にこの10年来の行事である。
 改めて蔵王連峰を調べてみた。日本海側と太平洋側とに分け、かつ、山形・宮城両県の県境を形成する「中央分水界」(分水嶺)が北東から南西にかけ、これに交差するように北西から南東に走る峰々を指し、主峰は熊野岳(1841m)である。古くからの名は刈田嶺(かったね)、不忘山(わすれじのやま)という。679年大和国・吉野山から役小角が蔵王権現を現在の不忘山に奉還し、山名を蔵王山と改称したことに由来する。なお現在の熊野岳にある蔵王山神社は、708年に同山頂に熊野神社として創建され、1952年に現在の名称に変更され、また山形蔵王は標高が約800m〜1400mにゲレンデがあるため、暖冬の年でも全部が滑走不可になることはまずないと記されていた。
 毎年元旦には地蔵岳に安置されている大きな石の地蔵様へ初詣をするのが常であるが、大晦日から元旦に掛けて日本海側の天気予報は大雪注意報が出されていた。

 12月30日 早朝に蔵王アストリアホテル到着。仲間の一人Sさんご縁のホテルで、いろいろ優遇されて感謝した。ホテルのヴァイキング朝食をゆっくり食べ、温泉に浸かり、準備をしてスキー場へ。青空の広がる素晴らしいお天気に初滑りの緊張も忘れた。私以外の先輩4人はスキーの超ベテラン達で、凄いスピードを出し、私は転ばないように、後ろからやっとの思いでついて滑った。「今日のうちに、お地蔵様へ挨拶に行こう」樹氷平からゴンドラで地蔵平へ、周囲のモンスターは雪が少なくまだ子供のようだ。360度展望は大朝日岳から鳥海山も微かに見えた。お地蔵様は膝下まで見え、なんと周囲に10体の子地蔵様を従えているではないか。結局いつもは雪が多く、今年は少なかった為に、大勢の地蔵様へお参りできた。ざんげ坂を夢中で滑り降り、ロングコースの大森から黒姫コースはとても滑り応えがあり、皆休もうともせず一気に滑る元気に脱帽だ。雪が少なく草が出ているところもあったが、青空に満足だ。

 12月31日 天気予報どおり大吹雪、私は吹雪の中のスキーはパスしたが、先輩4人は元気に滑りに出た。素晴しいパワーだ。私は温泉三昧と終日テレビ番組に釘付けのんびり、年越し料理はテーブルに載らないほど数の多さに大満足。23時には年越しそばとビールのサービス、スキースクールの先生方の松明滑降、吹雪の中の灯りが幻想的だ。部屋でのお喋りの中で先輩のEさん、Gさんは毎年のようにブータンやネパールへブルーポピーを追いかけ写真撮影に出かけている。話を聞くとホームページを持ち写真も掲載しているという。「花のランドネ」家に帰り楽しみにゆっくり拝見しよう。話はつきないが、病気もせずスキーに参加できたことに感謝しながら床に就いた。

 1月1日 朝から相変らず雪が降り続いていた。朝食はおせちヴァイキングとお雑煮、納豆餅とあんころ餅がとても美味しい。山形の風習は、つきたて餅を鳥だしの汁や納豆やあんこに絡めて食べるのが普通だ。ゆっくりお喋りしながら食べる食事は美味しい。
 吹雪の中、私はスキーをする気にならなくて、また松本清張の映画の誘惑に負けて、テレビに見入ってしまった。スキーを滑りに来たのに「一番若いのにどうしました」
 数年前までは何の誘惑にも負けず吹雪であろうがスキーが上手くなりたい一心で夢中になって滑っていたが、加齢による先が見えこれ以上上手くなれるか、いや諦めが出たらおわり、先輩達をみたら私はまだまだがんばれると年の初めに改めて教えられた。

 1月2日 最終日 夜の間に新雪が40p位積もった。相変らず雪が降り続いていたが。
 滑る準備をしてリフトに乗り継ぎ、高度を上げると地吹雪状態になっていて、前も見えず、Uさん達を暫く待っていたが横倉ゲレンデに戻り滑っていると、帽子を風で飛ばされたとがっかりしてUさんが戻ってきて、安心した。まだ雪は降り続いていた。
 14時スキーツアーのバスは山形蔵王から宮城蔵王スキー場3時間かけて全てを回りお客をのせ17時にやっと東京へ向かい、22時到着は料金が安いので仕方がないか。
 今年もスキーでお正月を迎えることが出来た。今回一緒の仲間たちの、山やスキーに故障なく元気に参加できることを念じたい。