2010年(平成22年)3月1日号

No.460

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花ある風景(375)

並木 徹

 魯迅と4人の日本人たち

 
 井上ひさし作・丹野都弓演出・こまつ座の「シャンハイムーン」は魯迅を取り上げたお芝居である(2月25日・東京新宿紀伊国屋サザンシアター・3月11日酒田を始め4月19日仙台など各地で公演)。帝国日本を心から憎んだ魯迅であったが、その臨終には魯迅が心から愛した4人の日本人が立ち会ったという。お芝居は魯迅(53)とその妻許広平(36)、それに4人の日本人、書店店主・内山完三(49)その妻・みき(41)、医者・須藤五百三(59),歯医者・奥田愛三(39)によって面白く、おかしく、それでいて深く考えさせながら展開してゆく。

 ▲時 1934年(昭和9年)8月23日から9月16日までの約一ヵ月間
 ▲場所 上海市北四川路底(行きどまり)内山書店2階倉庫

 プロローグでは6人の俳優が魯迅の書簡を読み上げる。この中で魯迅がノーベル賞の文学賞の候補に挙がるが「私より優れた文学者がいるから」と辞退する書簡があった。さらに書簡の中で内山完三の経営方針は「日本人にせよ。中国人にせよ、本を読む人間に悪人がいるはずがない」と言う一行だけであるという。立ち読みは自由、立ち読みの客に椅子をすすめ、お茶を振舞う。ツケで本を持たせる。何百円もたまろうともいやな顔ひとつしない。今はこのような本屋さんはいない。
 魯迅(村井国夫)は国民党政権に追われ内山書店へ避難する。この機会をとらえて内山(小嶋尚樹)は魯迅のぼろぼろになった体と歯を治そうとする。日本で医者の勉強をした魯迅はなぜか医者嫌いである。医者の須藤(梨本謙次郎)を魯迅の愛読者として近づける。魯迅にあくびをさせたりして体の診察をする。須藤は元軍医で順番通りに患者を見て日本人と中国人の差別をしない。むしろ中国人の患者が重ければ先に診る医者であった。
 歯医者の奥田(土屋良太)は肖像画を描くということで近づく。魯迅に笑気ガスを吸わして歯の治療をする。麻酔が切れた魯迅の言動がおかしくなる。須藤を恩師藤野厳九郎とみて文学の道に進んだことを謝る。妻広平(有森也実)を正妻朱安と思い込み謝り「人物誤認症状」を起こす。須藤医師は魯迅の医者嫌いは「間接自殺」の一種と診察する。ゆっくりした自殺願望とみる。治療方法はその人物に代わって許し、本人を励ますことしかないとう。舞台では須藤が藤野先生になり、広平が朱安、完三の妻みき(増子倭文子)は秋瑾女史となり、それぞれ魯迅を許し励ます。
 2幕目の初めに上海商業ニュースが流れる。「8月現在の上海の売春婦の数は2万5千人。上海の人口は3百万人ですから住民120人につき一人が、夜の巷に春を鬻いでくらしをたてている計算になります。彼女たちの客は日本人が最も多く、ついでフランス人、中華民国人、イギリス人の順になっています」。バブル最盛期、日本人旅行者の“売春ツア―”が問題となった。いつの時代になっても日本人は変わらない。
 魯迅の病気を治療するため内山夫妻ら須藤医師も含めて日本に行くことになった。ところが、中止となる。須藤が16年前に流行した上海チプスで妻子を亡くした際、3歳の女の子の里親となり匿名で生活費と学資を援助していた。その子が成長して看護婦となり「里親目簿」をひそかにみて須藤医師を訪ねてきた。「どぶ川の母子を救ってください」と頼む。上海には月の光で動物の骨のように見える川船に病気の母親を持つ子どもたちがたくさんいる。「先生が勤務のない時、付き添い看護婦をしますから病気の母親を見てください」というわけである。エピローグで須藤は「医者は病人が来るのを待ってはいけない。こちらから病人を探しに出るんだとむかし医学部でおそわったことがあります」という。魯迅は言う。「上海、ここはこの国の心臓部。ここにどっしりと腰を据えます。小説は、『シャンハイムーン』はもう書けないかもしれません。それでもいい。雑感文でこの世の中の欠点を突く。突き続ける。それがこの自分の後世に対する責任でしょうから。この場所を、そしてこの時代を背負って生き続けましょう」。
 魯迅が死んだのは1936年10月19日。享年55歳であった。朱安、広平の他立ちあったのは不思議なことに日本人だけであった。