友人の遺影に手を合わせて思わず「すぐに後で行くよ」とつぶやく。80を過ぎると否応なしに「死」を意識する。生者必滅と言う。わかっている。だが、この世に未練がある。それでもじわじわと死の影が迫る。「死も生も神のはからい月冴ゆる」(加藤静子)の心境にはなれない。告別式の帰り友人3人と駅近くのソバ屋で食事をした。期せずして同じメニューであった。友人の一人がテレビ(12月16日NHKテレビ『ためしてガッテン』)で見た餅の焼き方を説明した。「そうすれば餅は美味しく食べられるのだ」という。かっての士官候補生もこの体たらくである。日常の中に埋没する。それが生きるということであろう。
亡くなった友の名は百瀬涓という(2009年12月26日死去・享年84歳)。戦い敗れて軍人の道を諦め、戦後東大で学び、警察の道に進んだ。数々の要職を務めた。彼の自伝「私の歩んだ道」(2009年7月20日号本誌「花ある風景」参照)には部下思いで常に警察官の地位向上に努めたことが記されている。もと士官候補生らしく「人のため,世のために全力を尽く」姿勢が貫かれている。5年前に相思相愛の夫人を亡くしてからとみに気力が落ちた。今年11月ごろの体調を崩して入院療養中であった。看護婦さんに病院の指揮系統の正しいあり方を説明したり好きな詩吟を吟じたりしたという。
新聞の世界に入った私は彼から特ダネを頂いた記憶はないが、彼が見習いの警部の昭和25年頃、警視庁の喫茶室でコーヒーを飲み「お互いに頑張ろう」と励ましあったことがある。その後の私の新聞記者生活を考えれば、百瀬君は有形無形のうちに私を助けてくれたような気がする。千葉県の同期生の会合に講師として引っ張り出してくれたり、「こんなことが問題になっているよ」と話をしてくれたりした。さりげない友情と言うのがある。いまにしてわかる。
告別式(12月30日世田谷砧、実相寺)に参列したのは川井孝輔君,霜田昭治君、田辺静雄君であった。百瀬君とはそれぞれに深い縁を持つ。私は「遠別離」の歌詞を用意した。その必要はなかった。「きようの別れをいかにせん」「往きて尽くせよ国のため」と祈るのみであった。
(柳 路夫) |