2010年(平成22年)1月10日号

No.455

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安全地帯(272)

信濃 太郎

外交官・小村寿太郎を語る
 

外交官・小村寿太郎は「テニスン詩集」を愛読した。テニスンはヴィクトリア朝時代(1837年ヴィクトリア女王即位)を代表する詩人である。小村がどんな詩を好んだか知らないが、琴線に響く詩はある。「イノーニー」(トロイ王プリアモスの王子パリスの妻)に出てくる女神の一人の言葉「自己敬愛、自己認識、自己抑制、これら三者だけが人生を至高の権力に導くものです。しかし権力を目標にして生きるのではなく(権力は要求せずとも自ら備わるものですから)法を遵守して生きること、私たちが生活の規範にしている法を果敢に実践し、そして正しいことを正しさのゆえに行うことこそ、結果のいかんを問わず、眞の英知というものでしょう」。また「割れ目にさきでた花よ」6行詩ながら心にしみる(「テニスン詩集」西前美巳編・岩波文庫)。この詩を愛読したとすれば、小村寿太郎の資質が非凡であるのを垣間見る思いがする。
 NHKテレビの大河ドラマ「坂の上の雲」に出てきたように小村寿太郎は貧乏であった。衣類は古びたフロックコート一着だけであった。彼を借金苦から救ったのは大学南校の親友たちであった。小村は宮崎県の飫肥藩からただ一人選ばれて大学南校に入学した。卒業成績も鳩山和夫に次いで2番で、明治8年第一回文部省留学生として渡米、ハーバート大学で法律を納め、卒業後ニューヨークで法律の実務を勉強して明治13年帰国する。一時、司法省に務めた後、外務省に移り翻訳局で電報の翻訳、校正の仕事をしていた。ところが、父親が事業に失敗巨額の借金を背負った。今日のお金で数千万円であった。見かねた友人の杉浦重剛が7人の連帯保証人を集めて各人が月10円ずつ払うことにした。3年もすると落伍者が出た。結局、河上謹一と菊池武夫の二人で後をきれいに片づけた。持つべきは友達である。
 翻訳局が廃止され、行き場のない小村を救ったのが外相陸奥宗光であった。北京公使館の代理公使に任命した。前任の代理公使は3等書記官であった。1等書記官の小村にすれば明らかに左遷であった。代理公使の仕事は暇であった。小村はここで清国研究に精を出す。清国通の第一人者と言われた中島雄書記官の20年間にわたる記録を読み、欧米人の清国関係の書物を読み漁った。また総理大臣李鴻章にしばしば会い、各国公使を歴訪する。さらに欧米人が集まる北京クラブに行って外国人と交わり、彼らの清国観を聞くことに務めた。この熱心な勉強が明治27年日清戦争の時に大いに役だった。的確な情報と予想を陸奥外相に伝えた。さらに重要なことは戦争をどのような形で終結させるかであり、講和条件についても十分研究しておく必要があると進言する。明治27年9月、小村は第一軍司令部付となり清国安東県に置かれた民生庁長官に任ぜられた。村の民生安定が重要と考えた小村は犯罪者を厳罰に処すると、通訳を通じて村々を巡回させ村民を説得させ、さらに軍が調達する品物には正当な代価を支払うと、これまた通訳を通じて触れて回った。このため軍の食糧、車馬の調達も容易となり作戦行動を助けた。この小村の動きに第一軍司令官山縣有朋大将や民生担当の第三師団長桂太郎中将も感嘆したという。日露戦争の時、山縣有朋は参謀総長、桂太郎は内閣総理大臣であった。恩人の陸奥宗光は明治30年8月24日、54歳でこの世を去っていた。
 日露戦争の講和会議で外相として全権を務めた小村寿太郎が後輩に遺した言葉は次のようなものであった。「外交官は嘘を言ってはなりません。どうせ一度は素晴らしい大嘘をつかんけりゃなりませんから、平常嘘が多いと効き目がなくなります」(産経新聞)。明治44年11月26日死去、56歳であった。