2010年(平成22年)1月10日号

No.455

銀座一丁目新聞

上へ
茶説
追悼録
花ある風景
競馬徒然草
安全地帯
いこいの広場
ファッションプラザ
山と私
銀座展望台(BLOG)
GINZA点描
銀座俳句道場
広告ニュース
バックナンバー

花ある風景(370)

並木 徹

 さゆる夜のともし火すごし眉の剣  園女

 
 飛田八郎著「影絵」(藍書房・2009年10月26日刊))は芭蕉の門人、度会園女を取り上げる。園女は芭蕉から「白菊の目にたててみる塵もなし」とその清雅な生活ぶりをほめられた。伊勢山田の人である。元禄4年(1691)に出版された江水編「元禄百人一句」に園女は女性としてただ一人選ばれている。その句は「山ふかみそれにうき名よ姫くるみ」である。復本一郎著「江戸俳句夜話」(NHK出版)には「羽紅尼、智月尼、千子(ちね)等蕉門女性俳人の中にあって、他門・談林派の江水も認めるスター的存在であったのであろう」と表現する。著者は園女を「奇行の女」として描く。
 ともあれ「園女の墓」に詣でる(2009年12月28日)。地下鉄大江戸線「清澄白河」駅で下車、出口A3へ出る。左へ歩き、「花屋」を左折して次の路地を左折すれば左側に「雄松院」(おうしょういん)がある(東京都江東区白河1−1−8)。門の左側に『俳人度会園女の墓』。人間の身の丈ほどの石碑がある。石碑の左側に園女の略歴を記し、右側に辞世の歌「秋の月春の曙見し空は夢か現かなむあみだ仏」が彫られてある。園女は享保11年(1726)63歳で死去している。
 園女と芭蕉の接点は伊勢山田。園女は医者で俳人の斯波一有の妻であった。元禄3年(1690)2月、芭蕉が伊勢山田を訪れる。園女は喜んで「花までは時雨れて残れ檜笠」の句を作る。芭蕉は「宿なき蝶をとむる若草」と付けた。さらに「暖簾の奥ものゆかし北の梅」を与える。白菊とも梅ともいわれた園女は27歳、芭蕉47歳である。この出会いは園女が編集した「菊の塵」に出てくる話である。本書も時期について疑念を示すが、日本古典文学全集「松尾芭蕉集」(小学館刊)によれば、元禄3年は「9月13日伊勢神宮(内宮)に参拝し、外宮の遷宮式を拝観する。翌14日外宮に参拝する。9月下旬伊賀上野に帰郷」とある。元禄元年の項にも「2月4日伊勢神宮に参拝。そこで杜国に会う」とある。たしかに時期がずれている。元禄5年(1692)8月、園女夫婦は大阪へ移住する。井原西鶴は歓迎して「浜萩や当風こもる女文字」を作る。元禄7年9月27日、芭蕉が園女亭に来る。歌仙を開く。そこで芭蕉は「白菊の目にたててみる塵もなし」を発句として読む。第二句を園女が7・7として「紅葉に水を流す朝月」と付ける。夫の渭川(一有を改める)は第4句を7・7として「なにもせずに年は暮れゆく」と付けている。この夫婦は婦唱夫随のようである。夫婦円満の秘訣である。ところが、それから15日後に芭蕉は亡くなってしまう。これは園女のもてなしが悪かったわけではない。年譜によれば、芭蕉はすでに9月10日悪寒・頭痛に襲われている。それを押して俳席を重ね無理をする。二十日ごろ病気は一旦軽くなる。9月26日「此道や行人なしに秋の暮」28日「秋深きとなりは何をする人ぞ」の吟なる。29日病気が再発して臥床、容態が日ごとに悪化する。10月5日病床を花屋仁左衛門の貸座敷に移して養生する。10月8日深更、支考に「旅に病んで夢は枯野を課っけ廻る」を示す。10月12日、芭蕉ついに死去する。51歳であった。
 芭蕉が悪くなったのは園女亭で食べたキノコのせいだといううわさが広まる。文化7年(1810)に出た「芭蕉翁反古文」から昭和30年代に出た本にも「毒キノコ死因説」がとられる始末である。見出しの句「さゆる夜のともし火すごし眉の剣」は園女が芭蕉の死後に詠んだ句らしい。恋の句で相手はもちろん芭蕉。現世と異世との間にも恋はあるという。俳諧の世界ではありうる。
 園女が其角を頼って江戸に出るのは夫、渭川が死んでから2年目、宝永2年(1705)42歳の時である。深川富岡に住む。早速「菊の塵」を編集する。跋は「目には青葉山ほととぎすはつ松魚」で有名な山口素堂。素堂は「園女はまことに奇異な人なり」と評している。句集を編集したのは珍しいと言っているのである。その18年後「鶴の杖」と言う句集をまとめる。その序文に園女は「続古今和歌集」の後鳥羽院下野と言う人の歌を引用する。何日歩いても荒涼とした原野がどこまでも広がっている武蔵野。そんな武蔵野の風景を描いた歌である。すでにこの世にいない芭蕉を追って19年間、果てしない武蔵野を漂泊していた自分の気持ちを表現したという。薗女が追い求めたのは芭蕉だけであった。その芭蕉も「此道や行人なしに秋の暮」と詠む。芭蕉もまた行く先がわからず迷い、漂っている。園女は時には師の影を見失いながらも武蔵野の旅を重ねた。その結果、雲虎和尚に「俳句が無益の口業であるならばすべての経典も無益の口業です」ときっぱり答えうる境地に達する。「仏法も俳句も目指すものは同じだ」と言いたかったのである。本書の見方は深くて鋭い。
 蕪村が編集した「たまも集」(安永3年=1774=刊行)の巻頭に園女の「ゆつり葉の茎も紅さすあしたかな」がある。「たまも集」は女流俳人名句選で119人の449句を集めている。園女97句、智月72句、秋色38句などが収められている。園女没後48年、園女も有名人になった。「閑さや岩にしみ入る蝉の声」に園女の「虫の音や夜更けてしづむ石の中」、「五月雨のふり残してや光堂」に園女の「五月雨や色紙はげたる古屏風」がある。園女は異世の芭蕉を思って作句した。俳句を通して異世と現世を結び、お互いにメッセージを交換する。「立石寺の蝉はどんな蝉ですか」「考えて質問したらどうかな・・・」「あぶら蝉と言う人もいるのですよ」「うむ・・・」といった会話が交わされたかもしれない。そう想像すると、「眉の剣」は恋心を秘めてさらに鋭く感じた。いろいろ考えさせられた「奇行の女」であった。