2009年(平成21年)11月10日号

No.449

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安全地帯(266)

信濃 太郎

治安維持法成立する(大正精神史・政治編)
 

「治安維持法」について触れる。悪法といえども法律である。独裁者が決めたものではない。民衆、新聞など反対の声も多かったが、議会を通過した法律である。なぜ成立したのか振り返ってみたい。
 治安維持法は大正14年4月21日成立し、5月11日から施行された。内閣は加藤高明首相、担当大臣は若槻礼次郎内相であった。この法律は若槻内相の発案ではなく、内務省のかねてからの宿題であった。初めて議会に出されたのは、大正11年2月、床次二郎内相の時で、「過激社会運動取締法案」であった。「朝憲紊乱」(第1条)とか「社会の根本組織の変革」(第3条)を企てたもの、宣伝したものを懲役に処するというので新聞が反対した。新聞の論説に、枢密院の廃止とか貴族院の廃止とかいうことを書いてもすぐに罰せられる事になる。言論の自由はどこにあると主張した。当時、最も保守的と言われた貴族院も反対した。社会運動家の片山哲,星島二郎らが主催して反対演説会を開き、末広厳太郎、福田徳三、永井柳太郎らが反対演説をして多いに気勢を上げた。この時は野党の反対もあって審議未了となった。
 当然、形をあらためた「治安維持法案」にも反対の声が上がった。大正14年1月30日東京・芝区烏森の自治会本部で「悪法反対同盟会」が組織された。大阪でも翌日、労働者による悪法反対演説会が開かれた。2月に入り政府から法案が示されると、反対運動がますます盛り上がり、2月5日には芝公園の協調会館で労働者団体による演説会が開かれる。
 集まったのは、市電自治会、工場連合会、印刷工連合会、日本労働総同盟評議会、芝浦労働組合、官業総同盟など約20団体。東京日日新聞によれば、折からの雨をものともせず、カン詰めの盛況。各団体の代表者が熱弁をふるい「現内閣は野にあるときは護憲を唱えながら一朝天下を取ると,貴族、富豪の傀儡となって過激法案の焼き直しを制定しようとしている。我々は欺かれたのだ」とある。反対の集会はその後も続々と開かれた。
 加藤高明内閣は憲政会、政友会,革新倶楽部の連立内閣であった。内部にも反対者がいた。革新倶楽部の清瀬一郎と憲政会の中野正剛であった。中野正剛はこの法案が2月26日に発効する日ソ国交回復を目標として激化する労働運動および社会主義運動を対象として起案されたことは明らかであるがこの法律の「国体および政体」が拡大解釈されてゆく時、軍閥官僚の非合法な支配をもたらす思想的武器になってゆくと見た。
 若槻礼次郎内相は小川平吉司法大臣とともに出席して正式の委員会でなく懇談会という形で会議を開き、具体的にどこが悪いのか問題を詰めた。巻紙にいちいち書いた。「国体を変更することはどうか」みんなは「それは良くない」という。「私有財産制度を否定することはどうか」みんなは「それは良くない」という。政府はこの二つさへ取り締まれば、そのほかは取り締まる意志がないのだと言明した。委員たちはそれで納得した。若槻礼次郎内相は法案の第一条にこれを列挙した。かくて第一条「国体を変革し又は私有財産制度を否認することを目的として結社を組織し又は情を知りてこれに加入したるものは10年以下の懲役にまたは禁錮に処す。前項の未遂罪はこれを罰す」とする治安維持法ができた。衆議院での可決は3月7日、貴族院の可決は3月19日であった。
 「治安維持法」の適用第一号は大正14年12月1日の京都学連事件である。社会科学連合会に加入する京大・同志社大などの学生33名が検挙された。京大寄宿舎の捜索の際、立会人がいなかったなどの理由で府知事から抗議が出て全員が釈放された。昭和の時代になって「治安維持法」は猛威をふるう。