2009年(平成21年)11月10日号

No.449

銀座一丁目新聞

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花ある風景(364)

並木 徹

塩田章(元国防会議事務局長)オ−ラルヒストリー

 
 友人塩田章君の「塩田章(元国防会議事務局長)オーラルヒストリー」(近代日本史料研究会・2006年7月31日発行)を読む。この冊子(A4型・196ページ)は平和・安全保障研究所理事長、渡邊昭夫理事長と5人の「防衛庁・自衛隊史研究会」のメンバーが塩田君に質問して聞き取ったものをまとめている。インタビューは2004年4月から11月まで6回にわたって行われた。すでに塩田君が出した「会者定離」(平成10年10月22日発刊)で知っていることもあったが、防衛庁時代の話は興味深く読んだし考えさせられる点も少なくなかった。感じたまま感想を述べたい。
 確かに防衛問題について貴重な資料であるが私はむしろ彼の生き方に感心させられる。
 東大法学部に入って、高等学校から来た学生に比べて教養課程がないことを知り、1年間は法学部の授業を受けず、岡義武の政治史、林健太郎の外交史、丸山真男の政治思想史、井出隆の西洋哲学史などもっぱら文学部の授業を受けた。「史」とついている講議を全部聞いたという。2年から法学部の授業を受けたそうだ。実はこれらの勉強は無駄のように見えるが大切なこと。後で役に立つ。着眼点が良い。大学も出ず、食うためにマスコミの世界に飛び込んだ私は先輩から「1週間1冊の本を読め。社会部記者は暇があれば映画、芝居、音楽会、美術展に行け」と教えられ、几帳面に実行した。一見無駄なように見えるが企画を練る時とか文章を書く際、役に立った。よく難しい仕事を割り振られた。その際は陸士の現地戦術で「決心攻撃、矢(重点目標)は左」と教えられたことも守り、常に前向きに粘り強く、重点を決めて取材を果たした。
 昭和43年6月、米軍から返還された小笠原島の初代総合事務所長時代の話も面白い。中学2年生の男の子が盲腸になった時、村には婦人科の医者と自衛隊の衛生兵と東京都の保健婦と獣医しかいない。そのメンバーでやるしかないと思っていたところ、小笠原の海底の写真を取りに来ていたNHKの報道班の中に阪大のお医者さんがいた。その人がみんなが見守る中で見事に手術をした。この医者は名前は出ていないが、住吉仙也さんである。当時42歳である。私がスポニチ登山学校を作った際、講師になっていただいた。またスポニチが支援し、登頂に成功したサガルマータ(エベレスト8848m・1993年12月18日)の登山隊員(医師)の一人でもあった。六高から阪大に進み医学部在学中,船医となりヨーロッパなどをめぐり、卒業後はヒマリチュリ(7893m)、P29(7871m)などヒマラヤのあちこちの登山経験もあるお医者さんである。今は白いあごひげを垂らした好々爺ある。人と人のえにしは不思議なものである。
 栗栖弘臣統幕議長の超法規発言問題も国会答弁で「自衛隊は軍隊ではありません」問答も取り上げられている。敵の奇襲攻撃を受けた際、これに武器を持って応戦するのはあたりまえである。世界の軍隊がそうしている。千変万化の戦場で現場部隊長が「撃て」と命令できないと縛るのはナンセンスである。栗栖統幕議長は「その状態では困るよ」「超法規的行動をせざるを得ない現況である」と言ったに過ぎない。それを問題にする方がおかしいし、栗栖統幕議長解任、防衛庁長官辞任という事態も不可解である。新聞はこの時、自衛隊のいびつさを報道すべきであった。怠慢と言うほかない。防衛庁の6年、国防会議の2年の8年間の在任中「自衛隊は軍隊です」と明言できないために塩田君は苦労したようである。有事法制についても論じられている。このような問題は早く決めていたほうがよい。戦後64年、国民は戦争の事態がわからない。敵が上陸してきたらどうするか、どうやって避難するのかもわかっていない。それより前に自衛隊を軍隊として認め、有事の際は超法規的運用をさせるほかないであろう。敵が攻めてきた時、事態は日本の法律が想定した事態をはるかに超えているのだ。最後に「日本の自衛隊は軍隊として優秀かどうか」と問われて塩田君は「自衛隊は世界のどこの国にも負けないと思いますよ。そしてとことん頑張って国を守りたいという国民が『一緒に戦おう』と言う中での自衛隊でなければならない」と言っている。この説には大賛成である。
 最後に明治天皇の御製を掲げる。「世とともに 語りつたへよ 国のため 命をすてし ひとのいさをを」