2009年(平成21年)9月20日号

No.444

銀座一丁目新聞

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「嗚呼 モンテンルパの夜は更けて」
 

牧念人 悠々

 渡辺はま子が歌った「嗚呼モンテンルパの夜は更けて」をご存じであろうか。敗戦後、フイリッピン戦犯に生きる希望を与え、彼らの命も救った歌である。その歌声はどの政治家よりもどの外交官よりも人の心を、国を激しくゆり動かした。108名の戦犯たちが横浜港に帰国してから57年たつ。渡辺はま子もこの世を去り、戦犯の生存者も15人と少なくなった。「歌は世につれ、世は歌につれ」というがこの歌ばかりは後世に歌い継がねばならないと強く思う。
 フジテレビで放映された「戦場のメロディ」−108人の日本人戦犯の命を救った奇跡の歌―(9月12日)にその感をますます強くした。私は涙が止まらなかった。この歌は二人の戦犯が作った。これまで歌詞を書いたこともなければ作曲を手掛けたこともない素人の作品であった。歌詞・代田銀太郎(農民文学者・俳優阿南健治)作曲・伊藤正康(陸士56期・陸軍大尉・俳優金井勇太)であった。勧めたのは昭和24年10月教誨師として現地に赴任、6ヶ月の任期が来てもそのまま居残った加賀尾秀忍(A級戦犯の教誨師も務めた・俳優小日向文世)であった。加賀尾が持病の心臓病で倒れた際、戦犯たちが歌ってくれた「ふるさと」(作詞高野辰之、作曲岡野貞一)に励まされたからである。戦犯の思いを日本に届けるには歌が一番だと思ったのだ。作詞は母を、妻を、子を思いつつ作られたものであった。
 「モンテンルパに日が暮れる/椰子の葉末のちぎれ雲/離れ離れて、いつ会える/愛しきものの名を呼べば/泪に浮かぶ面影よ」(1番)
 曲は収容中に教会のオルガンを練習して覚え、仲間たちに童謡を聞かせ慰めていた伊藤であった。陸士56期、恩賜の伊藤の豊かな感性がもたらしたものであった。渡辺はま子(薬師丸ひろ子)は戦時中、歌手として中国各地で、兵隊たちに「支那の夜」『蘇州夜曲』などを歌い慰問した。戦後第1回紅白歌合戦の赤組のトリを勤めるなど国民的歌手であった。
 戦時中自分の歌で士気を高揚し兵隊たちを死地に赴かせたことに「自分こそ戦犯だ」と自責の念に駆られる。九州から遺族や戦犯の留守家族の慰問を始める。そこにはさまざまな悲しい人間ドラマがあった。衛藤利武(伊崎充則)は昭和21年、フイリッピン戦線から復員、田舎で妻初代(田畑智子)ら子供たちと農業をやりながら楽しく暮らしているところをMPに捕まった。妻のおなかには赤ん坊がいた。「ちょっと言ってくる」というのが夫の最後の言葉となった。彼がいた部隊は罪に問われたセブ島の北端にあるメデリンという島から100キロも離れたというのに住民の『この男だ』という“指差し”で死刑となった。多くのフイリッピン戦犯はこの”指差し”で無実の罪をかぶせられた。まさに勝者が敗者を裁く復讐裁判であった。『東京裁判』もまったく同じであることを知るべきである。13階段を上がるとき(昭和26年1月19日・この日14人が処刑される)衛藤(陸軍曹長・享年31歳)は加賀尾教戒師に顔を知らない息子(当時3歳)に遺言を残す。『どんな困難でも耐えて乗り越えよ』。現在、60歳を超えたその息子、守さんは「父の死が、私の人生に暗い影を落としたことはありません。むしろ、父のあの遺言のおかげで私は強く生きることができました」と語る。
 電気工、前川治助(萩原聖人)はモンテンルパ収容所を訪れた渡辺はま子から渡された妻邦子(中嶋朋子)の手紙で妻が、夫治助の戦死公報、子供を3人抱えた生活苦から再婚したことを知り号泣する(帰国後再婚した妻の夫が身を引いたため復縁する)。「嗚呼モンテンルパの夜は更けて」は加賀尾教誨師から知人を経て渡辺はま子の元に届き、昭和27年4月レコードとなった。渡辺はま子はいう。『悲しいう歌でした。切ない歌でした』。昭和27年12月25日モンテンルパ収容所で渡辺はま子の「クリスマス・コンサート」が実現する。「支那の夜」を始めたくさんの歌を歌いまくる。最後に「モンテンルパの夜は更けて」を歌う。いつしか涙の大合唱となった。このとき録音されたテープが昭和28年1月10日ラジオで全国放送された。たちまち国民の間から「フイリッピン戦犯を救え」の大合唱が起こり、救出運動と発展した。5月16日加賀尾教誨師はキリノ大統領と会見、戦犯の即時釈放を嘆願する。帰り際に渡辺はま子から託されたプレゼントを大統領に差し出す。富士山、五重塔、桜の木をあしらった鎌倉彫のアルバム式のオルゴールであった。オルゴールからのメロディは「嗚呼 モンテンルパの夜は更けて」。熱心に聞き入る大統領に『これは日本人戦犯が作った曲です』と加賀尾はいう。当時日本とフイリッピンの関係は悪かった。戦争でフイリッピンの国土は荒廃し、対日感情も悪かった。キリノ大統領自身妻子を日本軍に殺されている。フイリッピンは日本に80億ドルの賠償を要求していた。日本円で3兆円の額であった。それにもかかわらず、一ヶ月後の6月28日、キリノ大統領は日本人戦犯全員の釈放を決定した。歌が国を動かしたのである。
 ここに一人の役人の名前を落とすわけにはいかない。当時、復員局の事務官だった植木新吉さん(現在87歳・俳優城宮寛貴)である。渡辺はま子さんを陰で支えるとともに官僚としての出世も財産もなげ捨てフイリッピン戦犯釈放に尽力した。いまでも「モンテンルパの会」の世話役として面倒を見ている。加賀尾秀忍教誨師の33回忌(昭和52年5月14日死去、享年76歳)には植木さんをはじめ元死刑囚の会員が集まり式場の岡山県・宝蔵院でお祈りを捧げた後みんなで「モンテンルパの歌」を合唱した。

 「モンテンルパに朝がくりや/昇る心の太陽を/胸に抱いて今日もまた/強く生きよう、倒れまい/日本の土を踏むまでは」(5番)