安全地帯(261)
−信濃 太郎−
「普通選挙法」をめぐる原敬内閣と吉野作造(大正精神史・政治編・普通選挙法)
普選運動の歴史をみると、その時代は前の時代が残した負の遺産を消化し、さらに次の時代に消化しきれなかったものを残してゆくものと知る。とりわけ国民の権利の要求はその時代の為政者には簡単に認められず、長い年月がかかるものである。その意味では国民の権利闘争・運動は粘りづよく、へこたれず、気長にやるべきだという教訓を与える。
「普通選挙法」(衆議院議員選挙法)は大正14年3月29日、改正成立し、納税要件が撤廃され満25歳以上の男子に選挙権が与えられた。改正された普通選挙法による選挙が行われたのは昭和3年2月20日。有権者は1240万人。大正9年5月に比べると4倍に増えた。
長い道のであった。普選運動は明治25年(1892年)8月、自由党左派に属した大井憲太郎などが東洋自由党を結成し、その党内に普通選挙期成同盟を設置したころから始まるといわれる。東京日日新聞はそれより3年も前に憲法が明治22年2月11日発布されると2月16日から3月14日まで「大日本帝国憲法解釈」を連載、その中で2月27日選挙法について「選挙人、非選挙人の資格の軽重につきては古今学者その論をことにすれどそは時の宜に応じてこれを変更するほかなし」とその妥当性を疑問視し将来は改正の必要性を示唆した。新聞にはこの先見性が要求される。
普選問題が国会に持ち出されたのは明治33年以降である。この年の1月、松本市の普通選挙同盟会が普選請願書を衆議院に提出した。これが普選運動の原点である。明治36年には普選法案が衆議院に出される。委員会で否決されたが普選案が国会に出された最初であった。明治41年から44年まで毎年普選案が出される。明治44年には衆議院では可決されたが貴族院では簡単に否決された。明治43年5月に起きた大逆事件をきっかけに思想弾圧が起き、普選運動は後退を余儀なくされた。松本の普通選挙同盟会は幸徳秋水が役員の一人に名を連ねていたというので明治44年5月に解散させられた(大正6年には再興される)。
機は熟すという。第一大戦によってドイツが敗北、世界にデモクラシーの波が寄せてきた。大正7年のおかみさんたちの反乱「米騒動」の影響も見逃せない。普選運動は大正8年を機に息を吹き返した。普選案の国会提出も大正8年である。新聞はその運動の先頭に立った。東京日日新聞は大正7年12月19日の社説で英国は今年の2月6日公布の普通選挙法で女子にも選挙権を与えたとして、原敬内閣に一刻も早い普選
法の改正成立を求めた。
普選運動の理論的指導者は東大教授吉野作造である。「中央公論」の大正8年2月号の巻頭に「選挙権拡張問題」として普通戦擧同盟会の運動を取り上げ、側面から応援した。4月号には批判にこたえて、普通選挙の理論的根拠を論じた。吉野作造の代表的論文は大正5年1月号の「中央公論」に掲載された「憲政の本義を説いて其有終の美をなすの途を論ず」である。吉野作造はヨーロッパの民衆運動のたかまりを体得している。明治43年32歳のとき、欧米に留学する。ドイツ、オーストリア、フランス、イギリス、アメリカを見て回り大正2年に帰国する。世界全体は個人一人ひとりの考えや活動を大切にする方向に向かっており、政治も国民一人ひとりの意見や活動を重視すべきだと考えた。政治は民衆のためにするものだという「民本主義」を提唱した。デモクラシー論議が天皇を否定する共和体制に結び付くのを避けるため「民本主義」と呼んだ。
井上ひさしは「こまつ座」でこの民本主義をお芝居「兄おとうと」で表現した。そのお芝居の感想がサイトに掲載されているので紹介する(2003年6月1日号「銀座一丁目新聞」の「花ある風景」)。
「政治学者、吉野作造(1878−1933)をこんなわかりやすくみせる芝居はなんとも素晴らしい。井上ひさしは演出・鵜山仁、こまつ座公演「兄おとうと」(5月22日・紀伊国屋ホール)の中で吉野作造の「民本主義」を「三度のご飯をきちんと食べて、火の用心をして、元気で生きられること」と説明した。
舞台では吉野作造(辻満長)は演説の稽古をする。「りっぱなお屋敷を立てている大工さんが今にも倒れそうなあばら家に住み、豪華な着せ替え人形をこしらえる女工さんがあなだらけのショールで寒さを防いでいる。なぜ、なぜ、なぜ・・・」資本主義の矛盾をわかりやすくいう。庶民は何故、なぜを忘れてはいけないと教える。
10歳年下の弟信次(大鷹明良)とはケンカばかりする。兄は理想を追い貧者の救済に力を尽くす。弟は役人で現実主義者で、ものごとをテキパキ処理する。兄は役人を批判し、不敬な言辞を弄する。弟は現実を見ろと諭す権力志向型である。後に商工大臣になった(昭和12年、近衛内閣)。
妻同士が姉妹である吉野玉乃(剣幸)と吉野君代(神野三鈴)が計らって箱根の温泉宿に二人を招いて仲直りをさせようとする。この場面は面白い。当時商工省の次官であった信次は旅先でも書類にはんこを押す。はんここそ権力の象徴であるという。作造は東大教授を辞め(大正13年)「中央公論」で政治評論を発表する著名な言論人であった。簡単に仲直りするわけがない。夜おそくまで喧嘩口論する声に文句をつけにきた男と女がいた。男は東京の下町でブリキ工場を経営、社員旅行できている。女は大連連鎖街でキャバレーを経営、日本で探した若い娘をつれて中国へ帰ろうとしている。二人は9年前に別れて消息不明になっていた兄(小嶋尚樹)と妹(宮地雅子)であった。二人が歌う「会いたかったぜ」(作曲・宇野誠一郎)はその踊とともに芝居を一挙に盛り上げた。それは吉野兄弟の仲直りも暗示した。直接には妻たちが手帖につけていた夫達の寝言であった。兄は弟を、弟は兄を思う真情が語られていたからである。吉野作造が「民本主義」を唱えたのは東大教授時代の38歳のときであった(大正5年)。その二大綱領は「政治は一般民衆のために行われなければならぬ」。「政治は一般民衆の意向によって行われねばならぬ」である(吉野作造評論集・岡義武編・岩波書店)。それから87年。残念ながら日本の民主主義はいままだ地に付いていない。井上ひさしさんの意図はよくわかった」(次号に続く)。