2009年(平成21年)9月20日号

No.444

銀座一丁目新聞

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山と私

(58)
国分 リン

――奥秩父の盟峰「金峰山」再挑戦――

 昨年地図を見ずに「国師ヶ岳」へ1時間歩き出し、時間切れで断念した山「金峰山」、今年はいろいろ調べたら大変興味をひく事実を発見した。東京都の最高峰・雲取山、2018mからはじまる奥秩父主脈は西に行くにつれて高度を増し、甲州・武蔵・信州の3国の境である甲武信岳付近で2400mを超え、国師ヶ岳南の北奥千丈岳で2601mのピークを迎える。その後も高度を下げることなく西の盟主で信仰の山としても栄えた金峰山2598mを興し、さらに瑞牆山・小川山に至り、信州峠を越えて横尾山で幕を閉じる。奥秩父といえば2人の先達の名を忘れてはならないと言う。そのひとりの田部重治氏のレリーフが東の雲取山にあり、その田部を山へ誘った木暮理太郎氏のレリーフが西の金峰山麓の金山平にある。1935年には日本山岳会の第3代会長を務め、岳人の間では奥秩父の父といわれていて、今でも秋には「木暮祭」が行われているという。東北文庫から木暮理太郎氏の「サビタのパイプ」を読んだ。昭和18年当時の山登りの様子やその環境も興味深く面白い。「サビタのパイプ」とはアイヌの人たちが好んで作ったが、アイヌ語ではなく、東北訛らしい。ユキノシタ科アジサイ属の糊空木のことで根が堅いことで利用されたと言う。この糊空木の花にまつわるユニークでうら悲しい昔話がある。村の若者から、恋心を打ち明けられた美しい乙女がいた。若者を好きになれない乙女は、「このサビタの花が散るときがきたら‥」と返事した。若者は燃ゆる思いで待ち焦がれた。しかし、花は枯れ果てても落ちず、恋は実らなかったという。「花さびたとは美しくうら淋し」と、伊藤柏翠の句集にあるという。大谷 優氏のノリウツギ論であった。木暮氏の「サビタのパイプ」に戻ると山肌の美しい紫の色の部分にとても惹かれこの文章に出会えて嬉しくなった。
 9月5日(土)エーデルワイスクラブの集会で昨年のリベンジをと募ったところ、仲間のMさんと私の2人で実施、あずさで塩山まで行き、タクシーで大弛峠まで1時間、登山開始は10時であった。途中窓外から富士や南アルプスの遠望や5丈岩がよく見えた。登山口をよく確認し、オオシラビソの林を歩き出した。奥秩父特有の苔むした緑の中、急登もなく歩きやすい道を快調に少し下ると朝日峠に着いた。木の壊れたベンチがあり、昔の大変さが偲ばれた。ここでストレッチをし、朝日岳まで一気に登ると11時20分到着。3パーティが休憩を取っていた。おりから前方の金峰山には霧が立ち込めていた。後ろを振り返ると甲武信岳らしい姿が青空の中に少し見えた。昼食を摂り、岩ごろの急坂を降り、樹林帯を下ったときにこれからの登りを心配した。でも案ずるよりであった。這松が出てくると森林限界になり、稜線に飛び出した。でも残念ながら眺望はガスの中、岩稜地帯を慎重に夢中で登り、大きな岩の下を潜り、50mの岩を渡っていくと5丈岩が大きく聳えていた。12時50分頂上へ到着。赤い鳥居があり、その上の横に祠が祭られていた。他のパーティの男性達が岩登りに挑戦していた。でも期待していた5丈岩と富士の姿は、撮影できず、瞬間の青空と5丈岩に満足した。裏側へ回るとナナカマドの実が赤くたわわに実っていた。トウヤクリンドウ・タカネヒゴタイやコゴメグサの花が夏の名残のように僅かに咲いていた。20分以上霧が晴れるのを期待したがますます霧が濃くなり、下山開始。15時40分大弛峠に到着。友も調子良くコースタイム通り、今回ほど気分良く快調に登った山は久しくなかった。日差しも程よく、標高差も少なく、5時間余を山は優しく迎えてくれたことに感謝しよう。昭和43年秋に山梨県側と長野県側とのそれぞれから、大弛小屋へ林道が開通したことで、日帰り登山も可能になり、紅葉の時期は駐車場に車が溢れ、登山者が行列を作るほどの人気の山になったという。今回眺望がなかったので、またチャンスがあったら挑戦したい山になった。それに1つの山についていろいろ調べると奥が深くその山の別の顔を知り、登山の歴史や固有の植物たちの様子も理解できることが嬉しい。