2009年(平成21年)9月20日号

No.444

銀座一丁目新聞

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追悼録(360)

毎日新聞の物故社員追悼会

 毎日新聞の物故社員追悼絵に出席する(9月18日・毎日新聞東京本社)。今年合祀された社員は東京72柱、大坂47柱、西部27柱、中部19柱、北海道3柱、合計168柱であった。現役だけでなくOB、OGも含まれている。祭壇に飾られた遺影を見ると、一緒に仕事をした記者たちやゴルフを楽しんだ友人たちが18人もいた。今年は多い。人生無情である。少し長生きをしすぎたかなとも思う。社長の祭主追悼の言葉中で業績を上げた多くの友人たちの名前が出てきた。同期生・桑原隆次郎君(享年84歳)については「学芸部時代、新聞には絶対書かないと言われた丸山真男の評論を3遍も掲載した」。また山内陽君(享年83歳)については「全国の新聞に先駆けて経済面の2ページ化を実施した」などと紹介された。死んだことも知らなかった友人の名前もあった。社会部の男沢秀夫君(享年78歳)で都内版に連載した「東京百年」を単行本で「自由と民権の闘い」(毎日新聞刊・昭和43年10月発行)として出版している。この本は民衆側の視点で明治、大正、昭和の時代を斬ったユニークな内容である。今、本誌「安全地帯」で連載している「大正精神史」の貴重な参考文献となっている。
 この日最も感動したのは元サンデー毎日編集長も務めた広瀬金四郎君(昨年9月3日死去・享年53歳)夫人道子さんの「遺族総代の謝辞」であった。通り一片の挨拶ではなかった。その「謝辞」を紹介する。
 「振り返ると、夫も私たち家族も毎日新聞とともに歩んできた三十年だったと思います。初任地の盛岡支局時代に出会い、東京本社社会部へ転勤、何年かは警察回りで、明け方に帰ってくるような不規則な生活が続きました。その間に御巣鷹山に飛行機が墜落するという大惨事が起き、ロス事件があり、夫も体を張って仕事をしていたと思います。サンデー毎日では鳥越俊太郎さんに鍛えられたと聞いています。その後、タイのバンコク支局へ三年。家族ともに良い経験をさせていただきました。夫も時間的なゆとりもあり、小学生であった息子二人と家族そろって過ごした、思いで深い夢のような時期だったと思います。帰国後はサンデー毎日の編集長として、新しい出会いもあり、また違った経験をさせていただいたと思います。その後、少しずつ時間の余裕もでき、愛犬の散歩は夫の仕事の一つになっていました。2007年の10月、脳腫瘍が見つかり胃がんが原発と診断されました。半年もつかもたないかという医師の診断でした。この時も、同期の方々がすぐ駆けつけて下さり、心強く思ったものでした。またたくさんの方々にお見舞いに来ていただき、本当にうれしかっただろうと思います。脳腫瘍のガンマナイフ治療後の夫は、リハビリに必死でした。そして退院後、出社できるまでに回復しました。夕刊の「訪ねたい 銀幕友情」の企画は、どんなにうれしかったことでしょう。(略) 最後の仕事となった「楢山節考」。長野の南アルプス行きは7月の暑い最中で、本当にきつかったと思います。絶対に行くと言い張り、止めても無駄でした。あの暑い山道を往復5時間、忘れられません。2008年8月11日夕刊に、無事その仕事が載りました。翌12日、安心したのか夏の疲れも重なり、夫は入院しました。ちょっとやすむつもりで夫も私もいたのですが、がんが進行していました。9月3日。雨模様が続いた東京でしたが久しぶりに朝からよい天気になりました『よく頑張ったからそろそろここらでいいかな』と一人決め込んで、夫はその青空に溶け込むように逝ってしまいました。(略)」
 道子さんは途中、嗚咽しなから謝辞を懸命に述べた。私は社会部出身だが30歳も年下の広瀬君を知らない。会ったこともない。素晴らしい後輩がいたのを誇りに思う。広瀬君の2男は「お父さんはちょっと嫌いだったけれど好きになった。できたら新聞記者になりたい」といっているという。嬉しいことである。毎日新聞はまもなく創刊140年を迎える。その伝統と歴史は多くの記者たちの新聞への熱き思いとひたすらな努力と家族の人たちに支えられているのを今更の如く再認識した今回の物故社員追悼会であった。
 

(柳 路夫)