2009年(平成21年)9月10日号

No.443

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安全地帯(260)

信濃 太郎

難波大助事件とその余波(大正精神史・事件編・難波大助)

虎の門事件に触れる。当時国民は新聞の夕刊や号外で初めて事件を知った。テレビもラジオもない時代であった。宮内省の公表に国民は驚愕した。
 大正12年12月27日午前10時45分、摂政宮(昭和天皇)が議会の開院式に臨むため虎の門に差し掛かったところマントを着て鳥打帽をかぶった青年・難波大助(24)がマントの中に隠していた仕込銃を発砲、車の窓ガラスが破損しただけで摂政宮は無事であった。そのまま開院式に臨まれ、勅語を賜って無事おかえりになった。難波はその場で逮捕された。
 難波は10ヶ月あまりの取り調べを受け、大審院の公判を経て大正13年11月13日、死刑を宣告され、11月15日に早くも処刑された。難波は代議士難波作之進(大正9年に衆院議員に当選)の4男で山口県では素封家で、勤皇の志の高い家であった。
 永井荷風は「断腸亭日乗」(上)(岩波文庫)11月16日の項に次のように記す。
 「11月16日。日曜日。快晴。都下の新聞は一斉に大書して難波大助死刑のことを報ず。大助は客歳虎ノ門にて摂政宮を狙撃せんとして捕えられたる書生なり。大逆極悪の罪人なりと憎む者あれど、さして憎むにも及ばず。また驚くにもあたらざるべし。皇帝を弑するもの欧州にてはめづらしからず。現代日本人の生活は大小となく欧州文明皮相の模倣にあらざるはなし。大助が犯罪もまた模倣の一端のみ。洋装婦人のダンスとなんら択ぶところかあらんや」壮絶な個人主義者の永井荷風の冷めた皮肉な見方である。
 ところで、この事件に対する責任の取り方はすざましい。まず事件の責任を取って山本権兵衛内閣は総辞職した。父の作之進は議員を辞職、自宅に謹慎したままこの世を去った。東大と京大を出た二人の兄も会社を辞めた。警備にあたった警視庁は警視総監湯浅倉平、警務部長正力松太郎、当日現場担当の愛宕署長弘田久寿治の3名は懲戒免官、現場に配置された警官も実情によって免官、その他の処分に付された。郷里は全村挙げて正月のお祝いを廃して「喪」に入った。大助が卒業した小学校の校長、彼のクラスを担当した先生もこうした不逞の徒をかって教育した責を負って職を辞している。
 丸山真男はその著「日本の思想」(岩波新書・1961年11月20日第一刷発行)の中で東大で教鞭をとったことのあるドイツ人教師E・レーデラ−には「このような茫として果しない責任の負い方、それをむしろ当然とする無形の社会的圧力を」全く異様な光景として映ったようであると書いている。私は日本人の恥の意識の拡大とみる。常識的には事件に直接かかわった者が責任をとればよいものを「身内の恥」として次第にその恥の輪を広げてゆく。警備を担当した警視庁は警視庁なりに、難波家は難波家なりに関係者を増やしてしまう。それが皇室に絡まるとさらにひどくなる。だからこそ「当時の全国民七千万人から石を投げかけられた大助」という表現が生まれる。
 難波事件の世間に与えた衝撃は大きかった。なぜ勤皇の志の高い素封家からこのような青年が生まれたのか、解明したい。まず犯行の動機をみる。『警視庁史」(大正編)によると、「幼時はその家訓に従い皇室を尊び愛国の念も厚かったが、大正6年中学在学中に実母を失ってから世をはかなみつつあったところ再度高等学校入試に失敗し、独学を志して単身上京(大正8年9月、中学5年を中退する)、新聞配達をしながら自活していたがこのころから次第に性格が変わり、その上、当時ようやく伸展していた社会主義の影響を受け、好んで思想関係の著書を読むようになり、その思想は急激に左傾し、直接運動に身を投ずるようになった」とある。
 原敬吾著「難波大助の生と死」(国文社)によると、大助は数学、物理、化学の成績が良くなかった。山口高校には2度受験に失敗、三高も失敗する。長兄は一高から東大、次兄は三高から京大へすすんでいる。大正11年4月早稲田大学第一高等学院に入学するも親からの仕送りは月10円で貧乏な生活だった。父はあくまでも節約を説く。父への反発は強くなる。やがて学校に行かなくなり無政府主義から共産主義へと深入りする。大正12年2月,学校を中退して富川町の木賃宿に泊まり、労働者の生活に入る。築地の海軍造幣廠の職工手伝い、日給1円5銭。東京ガス会社の屋外労働、日給1円60銭から1円90銭であった。
 大助は政治に意外と関心をもっていた。東京へ出て予備校通いをしている間、普通選挙実現の演説会やデモにも参加、その実現を期待していた。とりわけ大助に影響を与えたのは大正9年2月26日衆院本会議を傍聴して聞いた普通選挙法をめぐる与野党の論戦であった。ヤジ怒号の応酬、議場混乱に陥り一時休憩などもあって、大助はたちまち国会議員に対する尊敬の念を失ってしまう。この時、原敬首相は普通選挙法を国民の判断に任せるとして議会を解散する。大助は「政治家なるものがいかに頑迷であり、そうして一般国民の利害ということに無関心であることに非常に憤慨し、この上は直接行動によるほかないと考えました」と述べている。この総選挙(5月10日)に特別の主義政見もない父が立候補して当選したことも大助に議会政治に見切りをつけさせた一つの要因であった。
 大正10年1月から雑誌「改造」を読み始める。「私の思想が社会主義なるものに入った第一歩である」といっている。決定的な機縁は4月号の「改造」の巻頭に掲載された河上肇の「断片」であった。この号は発禁となった。当時京大の経済学部教授であった河上肇がサックという人の「ロシヤ民主主義の誕生」でロシア革命のことを読み、それから材料をとってロシアのテロリストのことを対話体に書いたものであった。時に大助、23歳、そこに描かれたツアーの暴政をそのまま日本の実状にいちいちあてはまるように身近なものとして感じ、専制に対する報復としてテロリストが起こるのは当然きわまることだと考えた。
 原敬吾はその著書で「断片」との遭遇でテロリスト難波大助は芽生えたといっても過言ではないと言う。やがて幸徳秋水のことを知る。上野の図書館まで出かけて明治44年1月の事件判決当時の新聞を借りだして読む熱心さであった。予審でこの事件を契機として日本の社会革命運動が屏息した形になったのは同志たちが頑張らなかったからだ。私が死を決してテロリストになってやろうと思ったと述べている。事件決行2年半前である。
 彼の読書をみると、クロボトキンの「一革命家の生涯」「思想問題十二講」「種の起源」などがあげられる。どうであろう。本を読んで感奮興起することがある。テロは是なりと信じてもそれをただちに実行できるであろうか。多くの人は別の心のブレーキがかかるはずである。人さまざまだということであろうか。事件から50日ほどたった大正13年2月19日の予審で大助は「私がやったことに対して、何らの後悔をしておりませぬ。あくまでも私の行為は正当であったと思っております。また共産主義に対する信念は豪も動揺せず、平常考えていたことと同じであります」と述べている。難波大助は確信犯であった。