2009年(平成21年)8月10日号

No.440

銀座一丁目新聞

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追悼録(356)

親友・松岡嶢君の死を悼む

 親友、松岡嶢君の死を知ったのは7月29日朝であった。夫人エミ子さんからの電話で「7月26日なくなりました」と言うことであった。一瞬頭がくらくらときた。その日、筆が運ばなかった。親友とは何だろう。つきあいの長短ではなさそうである。毎日のように顔を会わせたいと思うわけでもない。昭和14年4月大連2中に私はハルピンから、松岡君は旅順からの転校生として入り、同じクラスで学び、遊んだ。気が合った。確か、3年生の冬休み、二人で天津に出かけた。大連汽船の船に乗ったのだが途中で嵐に遭い船が途中の島影にしばらく停泊した。船は大ゆれに揺れた。私は死ぬかと思った。松岡君も青い顔をしていた。その死の恐怖が二人を強く結びつけたような氣がする。4年生の時、彼が風邪で2,3日休んだことがある。その際、見舞のハガキに「君のいない教室は砂漠のようである」と書いた。といってもクラブ活動は別々だし、そうべたべたした間柄ではなかった。「君子の交わり」とでもいうか。心の結びつきは理屈ではない。
 数学が抜群に出来た松岡君は4年生で陸士に合格した。彼の父親は陸士18期生、マニラで刑死した山下奉文大将や終戦時の陸軍大臣で自決した阿南惟幾大将と同期生であった。折からの軍縮のあおりで少佐の時、軍を辞職、広島の文理大学で数学を学び、昭和3年旅順に渡った。松岡君は昭和17年4月、埼玉県朝霞にある陸軍予科士官学校に入学、入学時の颯爽たる軍服姿の写真を送ってくれた。1年遅れて私も陸士に入った。今度は私が彼に入学時の軍服姿の写真を送った。彼は3中隊、私は23中隊であった。兵舎は西側建物と東側建物とへだっていた。在校中1度訪ねてきてくれたが「君がその都度、オレに敬礼をしなくてはいけないからもう来ないよ」と笑いながら言った。松岡君は58期生、私は59期生、この1年の差は厳然としていた。振武台と名付けられたこの台上で共に練武に励んだのは8ヶ月であった。彼は昭和18年12月13日予科を卒業する。59期生は東練兵場に集合。東久邇宮稔彦王殿下台臨のもと行われた卒業式に参加、別れを惜しんだ。この日は月曜日、振武台の空はあくまでも澄んでいた。松岡君は砲兵科の士官候補生として神奈川県座間にあった陸軍士官学校へ進む。翌年の昭和19年10月、私も歩兵科の士官候補生として本科へ進んだ。建物は南と北と道路を隔てて分かれており、さらに戦況日々に悪く、決戦下とあって訓練は激しく厳しかった。58期との合同軍歌演習は一度ぐらいしかなかった。
 終戦の時、松岡君は陸軍少尉として敵の上陸の確率が最も高い相模湾(大磯〰二宮)の部隊で迎えた。戦後、一時商売をした後、自衛隊に入隊する。戦後マスコミの世界に入った私だが松岡君の行方は気にしていた。昭和47年論説員の時、一時、北海道支社の報道部デスクを務めた社会部の友人から札幌の自衛隊の広報室長に松岡君がいると聞いた。早速、札幌に出かけ30年ぶりの再会を果たした。その夜は息子さんが設計したという松岡君の家に泊めていただいた。さらにスポニチ時代に札幌に行く機会が増えたのでよくゴルフをした。ドライバーを使わずアイアンで打つのが彼の流儀であった。それで私と同じようなスコアーで回った。ともかく一緒に楽しくプレー出来るのが何よりも嬉しいことであった。大連2中のクラス会「となかい」にも折を見て参加するようになった。会報誌「となかい」にもよく寄稿した。第18号(2002年1月31日発行)にはこんなことを書いている。
 「私は広島出身ですが、仕事で北海道に昭和36年にまいりました。気候、風土,民情が旅大に似ていますので永住することに決めました。私は平成12年から完全な年金生活者となりました。今は陸士同期の北海道支部長、町内会連合会の財務担当役員、自民党の藤野支部長、囲碁、将棋同好会の会長などボランティアの仕事をさせられています・人生100とすれば、今富士山に例えるなら7・5合目あたりで、傾斜が急になっています。お互いにこのあたりで大休止をして体調を立て直し100に向かって前進しましょう」
 松岡君、100にはまだ10年以上もありますよ。三途の川を渡るにしては、少し早くありませんか・・・思い出は尽きない。2ヶ月前の今年5月28日に札幌で会えたことが今となってはせめての慰めである。その日、彼が療養中の「アウルコート真駒内」を辞去する際、端正な顔をした松岡君が見せた悲しそうな表情が今なお心に残る。享年83歳。心から冥福を祈る。友よさらば・・・・
 

(柳 路夫)