2009年(平成21年)8月1日号

No.439

銀座一丁目新聞

上へ
茶説
追悼録
花ある風景
競馬徒然草
安全地帯
連載小説
いこいの広場
ファッションプラザ
山と私
銀座展望台(BLOG)
GINZA点描
銀座俳句道場
広告ニュース
バックナンバー

 

追悼録(355)

高橋是清を偲ぶ

 高橋是清は「私は繰り返していふ。人間出世の目標は、精神的であって、物質的ではないと」(産経新聞7月27日「次代への名言」)銀行マンと後世にこう伝えたという。この記事を見て家の近くの多磨墓地に高橋是清の墓があるのを思い出した。手元にある「東京都多摩霊園案内」によると正門近くの8区T種2側16番にある。散歩を兼ねて出かけた(7月28日)。霊園の裏門から入る。忠霊塔がある「名誉霊域通り」を正門へ向かう。8本の柱がある「塔」の左側が8区であった。すぐわかった。「正二位・大勲位・高橋是清墓」とある。墓地の入口右に松、左にツゲがあった。墓の周りには松など4本の木が植えられていた。いずれも細い木であった。墓前には真新しい菊二つが供えられていた。線香の香りもわずかに残る。日銀の総裁もしたこともある人なのでお参りする人が絶えないのであろう。
 高橋是清は昭和2年3月の金融恐慌の際、大蔵大臣(田中義一内閣・政友会)に就任。銀行救済のために5億円を支出して事態を鎮静化した。高橋是清は常に困難な時に要職に迎えられたようである。事の発端は前任の大蔵大臣の片岡直温(若槻礼二郎内閣・憲政会)の失言により取り付け騒ぎが起きた。若槻内閣が2億円の救済資金の支出を出そうとしたがすでに国会が休会中であった。このため緊急処分で枢密院に法案を出したところ枢密院は「緊急処分に当たらない」として拒否されてしまった。
 早く政府保証をしないと事態は悪くなるばかりであった。4月に辞職した若槻礼二郎元首相・憲政会総裁は高橋蔵相に「反対党の思惑など考慮しないで必要だと思われることをなるべく速やかに断行されたい」と申し入れたという。この憲政会と政友会の在り方は今の自民党と民主党とは大違いである。時期が遅れただけ金額は倍以上となった。一私企業に公的資金を投入するのは一見不合理に見えるが、金融システムの崩壊を防ぐためにはやむを得ない施策である。
 高橋是清の墓の裏面には「昭和11年2月26日没」とある。それ以外なにも記していない。2・26事件の際、赤坂表町の高橋是清邸を襲撃したのは中橋基明中尉(陸士41期・30歳)率いる近衛歩兵3連隊の中隊であった。高橋是清を切ったのは中橋中尉と当時砲工学校学生であった中島莞爾少尉(陸士46期・25歳)であった。ともに処刑された。時に高橋是清81歳であった。
 中橋中尉は遺書を残す。「吾人は決して社会民衆革命を行ひしにあらず。国体反逆を行ひしにあらず。国の御稜威を犯せし者を払いしのみ」。
 アメリカに留学、奴隷に売られ脱出して帰国。若くして開成学校の教師、初代特許局長、日露戦争中13億円の外債募集に成功、大蔵大臣・農商務大臣・総理大臣を務めた。このような苦労人のどこが悪いのか。高橋是清は軍事予算を出し惜しみしたのであろうか。
 岡田啓介内閣当時、大蔵大臣の高橋是清の手で編成された昭和11年度予算は総額22億7200万円「実質的にも未曾有の膨張予算」であり、公債削減は一応貫かれたものの軍部を除く各予算の削減によって、かろうじてつじつまを合わせたものであったという(「大正・昭和経済史・「エコノミスト」半世紀の歩み・エコにミスト編集部編・毎日新聞社」)。陸海軍予算費は全予算の46.4%をしめ軍事費とその他の歳出の均衡は全く失われている。雑誌「エコノミスト」の「主張」は「軍部予算の膨張につれ、脂ぎった重工業資本家が笑壺に入っているのも非常時日本の一特色」と皮肉りながら「そのために財政が乱れ、国民の大半が塗炭に苦しんでも、日本資本主義の現段階からいえば、恐らく手の着けようがなかろう。客観的に規定されたコースをまっしぐらに走っているのが今日の日本の姿である・・・」とさじを投げている。「財政の生命線」を守った最後の予算といわれたこの昭和11年度予算に対しても軍部の不満は強かったという。やんぬるかな・・・
 高橋是清の左の墓は黒木為禎陸軍大将(草創期・日露戦争では第1軍司令官)の墓であった。手を合わせる。正門から帰途に就く。
 

(柳 路夫)