2009年(平成21年)8月1日号

No.439

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安全地帯(256)

信濃 太郎

山本実彦改造社長の見事なアイデア(大正精神史・出版編)

改造社の山本実彦社長は面白い人物である。ある意味では破天荒である。大正精神史「田中智学と石原完爾」の項で物理学者アイシュタインを日本に招いた男として紹介した。戦後まで生きたとはいえ山本実彦改造社長の大正時代に残した足跡は大きい。
 鹿児島は川内地方の生まれ。鍛冶屋の倅で中学を中退して、沖縄で代用教員をして100円をためて上京する。22歳で「やまと新聞」に入社、2年後ロンドン特派員になる。25歳から人物評論を書き始め、「政界の寧刑馨児」(博文館)から出す。28歳で退職、東京市会議員に立候補、当選する。そののち総選挙に出馬するが落選する。雑誌「改造」を発行したのは大正8年4月。35歳の時である。3号までは売れなかった。3号は発行2万部のうち実に返品は1万3千部を数えた。そこで横関愛造と秋田忠義の2人のアイデアで「労働問題・社会主義」号として出したところ爆発的に売れ、3万部があっという間に売れ切れた。その後この路線で行く。そこへ横関愛造の早稲田の後輩で大阪毎日新聞の村島帰之記者が訪ねてきた。村島記者は自由党代議士川口帰一の三男で、母方の姓を継いでいた。村島記者は大正4年毎日新聞に入社、入社2年目で大阪を中心としたスラム街の実情を統計を駆使して記した「ドン底生活」を4回にわたり連載、話題を呼んだ。初代労農記者「ドンちゃん」と愛された。その村島記者が神戸の貧民窟にいる賀川豊彦を「面白い人物がいる」と紹介した。そこで生まれたのが大正9年新年号から連載された賀川豊彦の「死線を超えて」である。単行本となるや10万部が売れ翌年1年で80万部が売れる驚異的記録を作った。世の中には“飯のタネ”はどこにも転がっている。それを発見できる人とそうでない人がいる。アイデア3原則というのがある。1、アイデアはアイデアがわかる人にしか分からない。2、いいアイデアは会議に掛けるな。3、みんなが賛成するアイデアはつまらないアイデアである。これは今なお通用する。
 山本実彦のアイデア商法は視野を世界に向ける。大正10年1月バートランド・ラッセルは「改造」に「愛国心の功過」を寄せ、日本の論壇に大きな波紋を起した。その年の7月にはブラック夫人、パワ令嬢を日本に招待する。慶応義塾では「文明の再建」という講演をする。翌年3月10日サンガー夫人を招く。サンガー夫人は大正9年3月にも来日、産児制限を遊説しているので上陸を許されず、山本が内務省に神田青年館で一回だけ演説をするということで許された。アインシュタイン博士の来日は大正11年11月17日である。42日の日本滞在期間中アイシュタインブームを巻き起こす。その庶民的な人柄が日本人の好みに合ったのである。
 関東大地震後円本ブームの先駆けを作ったのも「改造社」であった。藤川靖夫が提案した「震災で家も本も焼けた。一冊づつ出すより現代文学全集にして出したらどうか」編集部は「企画が硬い」と反対した。そこを山本は資金、広告、印刷、用紙の手筈を立てそれぞれ交渉して出版を決めた。ともかく定価1円にして予約で会員を募集、毎月1冊発行する方式で会員は25万人に達した。大正15年11月のことであった。他の出版社も追従したので「円本ブーム」が巻き起こった。これは関東大地震の“文化的余震”といえよう。