2009年(平成21年)7月1日号

No.436

銀座一丁目新聞

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追悼録(352)

元陸将・伊藤正康さん逝く

 肩書は元陸上自衛隊富士学校長、元陸将として伊藤正康さんの死亡記事が新聞に掲載された。なかには渡辺はま子が歌った「嗚呼モンテルパの夜は更けて」の作曲者と紹介したところもあった。伊藤さんは6月11日死去された。享年86歳であった。陸士56期。陸軍大尉。元フイリッピン戦犯であった。私は3期先輩の伊藤さんを含めたモンテンルパの戦犯111名の人たちが昭和28年7月22日白山丸で帰国した際、横浜港で取材している。64年も前の話である。
 伊藤さんはフイリッピン・マニラの軍事法廷で原住民虐殺の罪に問われ、無実にかかわらず昭和23年1月、死刑の判決を受けた。「あの兵隊は田中だという名前であった」という住民の告発の“一言”で田中姓の者は戦犯収容所送りとなった。このため斎藤、佐藤、伊藤、中村。吉田など日本人に多い姓の者はほとんど捕まったといわれる。マニラ裁判の起訴件数は87件、起訴された者237名、その結果、絞首刑62名、銃殺刑7名、終身刑33名、有期刑73名、無罪24名その他38名となっている。山下奉文大将(陸士18期)本間雅晴中将(陸士19期)が処刑されている。明らかに報復裁判であった。
 本間中将は次の辞世の歌を残す。
 「戦友等眠るバタンの山を眺めつつマニラの土となるもまたよし」
 フイリッピン戦線では56期生254人が戦死している。伊藤さんは同じ死を迎えるなら戦死の方が潔かったのにという思いが抑えきれなかったという。昭和26年1月モンテンルパ刑務所では14名が一度に処刑された。何故か伊藤さんは処刑をまぬがれた。
 「嗚呼モンテンルパの夜は更けて」が生まれたきっかけは、昭和27年4月この刑務所に派遣され戦犯者と起居を共にした加賀尾秀忍教誨師の「歌でも作って歌ったら…」という勧めであった。文学青年の憲兵隊少尉・代田銀太郎さん(長野県出身)が詩を書き、伊藤さんが独学で覚えた教会のオルガンで曲を作った。その歌を伊藤さんが歌ったのだが評判は芳しくなかった。ところが加賀尾さんがNHKラジオ番組の司会者へ送った詞と曲が渡辺はま子のところに渡った。それを渡辺さんが歌い、そのレコードがポータブル蓄音器とともに刑務所に送られてきた。レコードを聞いたみんなは感動した。
 モンテンルパに夜は更けて/募る思いに遣る瀬ない/遠い故郷を偲びつつ/涙に曇る月影に/優しき母の夢を見る(3番)。
 昭和27年12月24日刑務所に慰問にきた渡辺はま子の歌を聞いてみんなは泣いた。最後はみんなで大合唱となった。やはり「歌は歌手による」。
 この歌は昭和27年、ヒットした。巷にはサラリーマンの給与の10倍の8万円の小型冷蔵庫(90ℓ)が出回り、渋谷に都営初のエレベーターマンションが登場、世の中が少し落ち着きを見せ始めたころであった。翌年7月フイリッピン戦犯の人たちは全員釈放された。
 モンテンルパに朝がくりゃ/昇る心の太陽を/胸に抱いて今日もまた/強く生きよう、倒れまい/日本の土を踏むまでは…
 伊藤正康さんのご冥福を心からお祈りする。
 

(柳 路夫)