安全地帯(253)
−信濃 太郎−
騒動は騒動を呼ぶ 新聞の筆禍事件(大正精神史・新聞・雑誌編)
騒動は騒動を呼ぶ。寺内正毅内閣時代に新聞史上に残る二つ筆禍事件が起きている。まずその背景を説明する。大正5年10月9日大隈重信内閣が総辞職を受けて寺内正毅内閣が成立した。大隈重信は辞任にあたって衆議院第一党である立憲同志会総裁であり、自分の内閣の外相で副総理格を務めた加藤高明を押した。ところがかねてから元老政治と藩閥嫌いの加藤高明に反対する山縣有朋ら元老たちは宮中で開かれた「元老会議」で“長州閥”の寺内正毅陸軍大将(草創期・日露戦争時陸相・朝鮮総督)を選んだ。
山縣有朋は寺内大将に組閣の大命が下った翌日、加藤を私邸に招いてこう言ったという。「大戦の非常時にあたっては、いかに有能であっても、一党派の首領が首相になっては挙国一致の妨げになると吾輩は考えている」
しかも加藤に嫌がらせをするように立憲同志会を抜けて間もない後藤新平を内務大臣に、仲小路廉を農商務大臣で入閣させた。寺内内閣と元老への対決を強く心に決めた加藤はかねてから進めていた新党結成を目指し内閣が発足した翌10月10日新党憲政会の結党式を挙げた。憲政会は衆議院議員だけで197人となった。内訳は旧立憲同志会154人、旧中正会21人、旧公友倶楽部22人である。衆議院の定数381人だから過半数を制したことになる。加藤が総裁になり、総務に尾崎行雄、高田早苗、若槻礼次郎、浜口雄幸ら強力メンバーがついた。この年の11月加藤は東北遊説中に山形市で注目すべき演説をする。「憲政の常道」の言葉を使っている。「いかに挙国一致の時であっても、政治は国民の支持を背に各人各自の意見の異同を論及して互いに研鑽して民意を反映させるものである。一人も反対がないのは健全な議会ではない。したがって党首の首相を封じるは政党を国賊か反逆者とみなす古い誤った考えであります。諸君、これよりわが憲政会は法律の許す範囲において憲政の運用をその常道にかえすため粉骨砕身、努力することを誓うものであります」(寺内峻著「凛冽の宰相 加藤高明」講談社刊)。
当時の新聞界はこぞって長州閥の内閣誕生に反対した。10月12日全国記者大会が築地精養軒で開かれ、元老による政権の私議、閥族、官僚政治の排斥などを決議した。
「郵便報知」は12月9,10の両日「宮中闖入事件」と題する社説で厳しく追及した。寺内内閣の出現は、天皇の意向を無視した元老たちの私議によるもので、天皇のお召しによって集まるべき元老が“みだりに宮中に押し入った”という趣旨である。10日と12日付社説は発売禁止になった。12日の社説は「本紙の発売禁止」で山縣有朋ら元老の行動を非難、新聞社の立場とその使命を表明した。これに対して政府は10日と12日付きの社説は新聞紙法第12条に定めた「皇室の尊厳を冒涜するものである」として告発,筆者の主筆の須崎芳三郎と編集発行人の國分邦彦の二人に実刑判決を下した。これに直ちに控訴,上告したが大正6年末、刑が確定、須崎が禁固3ヶ月、罰金100円。国分は禁固3ヶ月、罰金150円を課せられた。
もう一つの筆禍事件は世の言う「大阪朝日新聞」の「白虹 日を貫けり」事件である。大正7年8月25日、関西方面の有力新聞86社が中之島中央公会堂で代表社員166名が出席して「寺内内閣打倒関西新聞記者大会」を開いた。このときの懇親宴の模様を報道した「大阪朝日新聞」の夕刊の記事に「白虹日を貫けり、昔の人がつぶやいた不吉の兆が人々の頭に電光のように閃いた」とあった。これが問題となった。
この言葉は「後漢霊帝記」などにあり、「国に兵乱あるの象」とされる。又「白虹は民衆、日は皇帝をさし、いわゆる刺客の剣が皇帝に向かう」ということにもなる。新聞を目の敵にしていた大阪府知事は事の次第を上京して寺内首相に報告したため9月9日大阪朝日新聞の幹部は新聞紙法違反で起訴され、25日に全面的発行禁止を論告した。やむなく朝日新聞の村山龍平社長は辞任、幹部社員50余名も引責退社した。12月4日に出た判決は記事を書いた記者が禁固2ヶ月、発行人に禁固1ヶ月であった。この裁判の途中の9月21日護憲騒動の責任を追及されて寺内正毅内閣が総辞職した。9月29日には平民宰相といわれた原敬が登場する。
ちなみに目白台の椿山荘にいて天下を睥睨していた山縣有朋は大正11年2月、85歳でこの世を去った。その肩書は「枢密院議長元帥陸軍大将従一位大勲位高一級侯爵」。2月9日、日比谷公園で国葬が行われた。この国葬について阿部真之助は次のように書く。「私は新聞記者として、いくつかの国葬を見てきた。国葬となる元勲と称せられる人々は、本来的に民衆の友ではなかった。それでも私は山県の国葬ほど、寂寞たるものを見たことがなかった。葬場は日本の国内にある。だが民衆の国境から遠くかけ離れた、離れ島にあるような感じがした。山県という人間は、民衆からこんなにも縁のない、むしろ憎しみの的となっていたのである」(小島直記著「志に生きた先師たち」新潮社)
阿部真之助は群馬県の産。明治44年に東京日日新聞に入社、政治部に属していたが間もなく大阪毎日新聞に転じ内国通信部員、名古屋支局長、京都支局長を務め、大正11年12月社会部長となる。大阪時代からその毒舌は有名であった。いつの時代でも徳のある人、慈愛のある人が庶民から慕われるという証左であろう。