2009年(平成21年)5月10日号

No.431

銀座一丁目新聞

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安全地帯(248)

信濃 太郎

桜島の噴火とともにシーメンス事件起こる(大正精神史事件編1)

 大正3年は桜島の噴火で始まる。1月12日の夕方、毎日新聞編集局に1通の電報が舞い込んできた。「桜島が大噴火、鹿児島市が灰に埋まり死傷者多数。噴火鳴動なほやまず盛んに熱灰を降しつつあり」。病気で鹿児島に帰郷中の連絡部副部長、鮫島鉄馬からの第一報であった。現場に出かけた政治部員の島崎新太郎と三木写真部員の第1報が届いたのはそれから3日後であった。島崎の火口探検記と三木の写真が特ダネになって紙面を飾ったと「社会部記者大毎社会部70年史」は伝える。事件・事故は発見した人が通報するのが新聞社の社員の務めであった。鮫島連絡部副部長がそれを守ったのは当然である。社務に忠実なのは褒められてよい。現場に出かける記者に政治部員が選ばれたのは編集主幹の渡辺巳之次郎が「危険な現場だし、元気ですばしこいのがいい」ということであった。桜島噴火による被害は、死者9600余名、牛馬2800頭で、溶岩30億トンが海中に流れ込みために海水はにえたぎったという。
 それから10日後の1月22日に外信部にロイター電が舞い込む。
 「シーメンス会社の元社員カアール・リヒテルがドイツの法廷において、シーメンス社が日本海軍の艦政本部員にたいして多額な金銭を贈賄した事実を陳述した」
 翌日各社が大きく報道した。62年後の昭和51年2月5日同じような事件が起きた。外電が「米上院外交委員会多国籍企業小委員会の公聴会で児玉誉士夫が全日空へ航空機を売り込むためロッキード社から7百8万5千ドル(約21億円)を受け取った」と伝えてきた。毎日新聞は外信部のデスクがUPIの未翻訳のテレックスを社会部のデスクに持ってきたのが朝刊の締め切り時間後であったので翌日回しとなった。朝日新聞は2面で報道したにすぎなかった。翌日の夕刊になると、その事件の重大性に各社は一面トップで報道した。ロッキード事件の幕開けであった。
 シーメンス事件を東京日日新聞は次のように報じる(1月23日)。
 「電気機械製造業シーメンス・シュツケル商会東京支店にかって在勤したるリヒテルは伯林(ベルリン)裁判所において2ヶ年間の服役を宣言せられたり。右は同被告が同支店の重要書類を窃取し、金銭強請の具に使用せんとしたるためにして、その筋の検挙せる証拠書類によれば、窃取せる書類は日本の海軍省よりの諸注文に関係するものにして、同商会側は日本海軍高官に贈賄せリという証言をば否認せるも同商会が日本海軍省代表者らに手数料を支払いたりと明言せリ」
 実は政府はこの事件を2ヶ月ほど前から知っていた。大正2年秋シーメンス会社のリヒテルが外国通信人と称するプーレーという男にそそのかされて、同社が日本海軍と契約した無電装置設置計画の機密書類を盗み出した。プーレーはこれを750円で買い取って上海のロイター通信社に送って内容を公表しようとした。この書類は贈賄の事実が察知できるものであるので、シーメンス側は人を介してその書類の買い戻しを交渉した。プーレーは25万円を要求、これが受け入れない場合はあくまで公表すると脅迫した。再三交渉の末、額面5万円の銀行小切手を脅し取った。警視庁は捜査を進めたが海軍の機密に関することなので海軍に通報したところ海軍部内で究明するというので捜査を中止した。ところがシーメンス会社を解雇されて帰国したリヒテルがドイツで検挙され、法廷でシーメンス社が行った日本海軍高官に対する贈賄を陳述した。これがロイター電になったわけである。
 このとき国会では3億5千万円の海軍補充計画の政府予算が提出されていたので国会の内外で政府に対する非難の声が上がった。時の政府は53日の短命であった桂太郎内閣のあとの山本権兵衛内閣(大正2年2月20日成立)であった。「長州からの陸軍」の桂太郎から「薩摩に海軍」の山本権兵衛に替わったのに憲政擁護で桂内閣を倒した世論はやりきれない不満がくすぶっていた。同志会の島田三郎が衆議院予算員会でシーメンス事件を取り上げた。さらに国民党犬養毅、中正会尾崎行雄、島田三郎らが三派連合して2月10日に政府問責決議案を提出したが、絶対多数の政友会を与党に持つ山本内閣のために205票対164票で敗れた。
 この問責決議案に呼応するように2月10日の早朝から議事堂の周りに群衆が集まり正午過ぎには万を超えた。「山本内閣弾劾国民大会」も日比谷松本楼開催の場所を急きょ音楽堂前広場に変更して大会を開き、数千人の参加者は閉会後、衆議院周辺の群衆に合流した。問責決議案の審議が刻々伝えられ、午後3時15分ごろ「只今花井卓蔵の演説を政府側議員が妨害している」という報が伝えられると群衆は一斉に門の鉄扉に押し寄せ喊声を上げ門内へ乱入した。民衆のくすぶる不満・不正に対する怒りはちょっとした言葉で火が付く。抑止する警官隊に反抗して、罵声怒号が飛び果ては下駄、杖を投げるなど現場は大混乱に陥った。午後4時15分、警視総監は軍隊の出動を要請した。午後5時、700名の軍隊が出動してようやく事態はおさまった。
 現場を追われた群衆は各数千の集団となって市内に流れ出し、電車に投石したり、中央新聞、東京毎夕新聞、政友会本部などを襲ったりしたが警戒態勢を整えていた警官隊に阻止され、たいした被害を出さずに解散した。1年前の騒動に比べて警官隊の被害は負傷者37人と少なく、群衆に被害が多かった。山本内閣にとってシーメンス事件は致命的で、予算案が貴族院で否決されると議会を停会して3月24日総辞職した。後継内閣は難航してやっと4月16日に大隅重信内閣(第2次)が成立した。このときも山県系の清浦圭吾に内命が下ったが、海軍側が海軍大臣を出さなかったため流産している。
 シーメンス事件では山本首相(海軍大将)と斎藤実海相(海軍大将)が予備役編入になった。大正3年5月29日の海軍軍法会議で松本和中将(海兵7期・艦政本部長)は懲役3年(追徴金40万9千8百円』沢崎寛猛大佐(艦政本部第1部員)は懲役1年(追徴金1千5百円)藤井光五郎機関少将(草創期・艦政本部第4部長)は懲役4年(追徴金36万8千3百5銭)の判決が下された。
 世にシーメンス事件と呼ばれているが実際は4つの個々の事件に分かれている。共通しているのは当時の海軍の拡張計画推進中の出来事であるということである(「警視庁史」大正編)。
 @松本中将に対する、英国造船会社ヴイツカースの日本代理店三井物産の贈賄事件。
 三井物産の技術顧問、松尾鶴太郎は元造船総監であり艦政本部長の松本中将とは昵懇の間柄であった。巡洋艦1隻の発注をめぐり三井物産との間に贈賄が行われた
 A藤井海軍機関少将に対する、英国のヴイツカース造船会社のバロー造船所長ゼームス・マケクニーの贈賄事件
 藤井少将はゼームス所長とはかねてから知友関係にあった。藤井少将の報告書によって明治43年11月、ヴ社との建造契約が成立した。ゼームス所長はその好意に報ゆるため金品を贈ったものであった。
 B沢崎大佐に対するドイツのテレフンケル電機会社は日本代理店シーメンス・シュツケルト電機会社の贈賄事件
 明治41年5月、海軍省は大規模な無電施設計画を立て、その無電装置をテレフンケル電気から購入することにした。シーメンスの日本代理店が大正2年4月から沢崎大佐らと交渉し7月2日に装置一式、建設費などの金額が決まった。日本代理店の日本人売り込み人がその好意に報ゆるために贈賄した。
 Cこれに関連したシーメンス会社恐喝並びにシーメンス三井物産両者の証拠隠滅事件
 贈賄を受けた海軍の将官たちはいずれもこちらか積極的に金品を要したものではなく、相手側の好意をそのまま受け取っている。人間の弱さであろうか。
 大隅内閣は6月に首相はじめ外、蔵、陸、海各大臣と参謀総長、軍令部長からなる国防会議を作り、八・八艦隊を前提とした八・四艦隊並びに朝鮮2個師団増設を内閣の方針とした。大正4年3月に行われた第11回総選挙で与党の同志会が大勝して大隅内閣は支持され、その直後の国会で増師案をはじめ政府提出の予算案が可決された。