2009年(平成21年)5月10日号

No.431

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花ある風景(346)

並木 徹

毎日新聞に「畠中茂男」ありき

 毎日新聞の仲間、畠中茂男君が自分史「だらぽち記者 奮闘記」を自費出版した(平成21年4月12日)。記者ものとしても抜群に面白く、経営書としても示唆に富む。このような記者をなぜもっと優遇しなかったか惜しまれる。
 新聞記者としての駆け出しの勤務地は福井支局。昭和28年4月、22歳であった。

 「エンピツの匂ひほのかに吾が夫の駆け出し記者の馴れ初めの頃」(玉恵)
 「ガタゴトと台風襲来夫取材子犬と震えし新婚当初」(同)

 畠中君を知ったのはアジア調査会常務理事・事務局長の時であった。昭和61年5月に就任した畠中君が当時の山内大介社長から指示されたのはアジア調査課の基金3億円を死守せよであった。その時、アジア調査会は5年間赤字続きで累積1千万円となっていた。どうすれば赤字を減らすことができるか、一つは3億円の基金を投資運営すること、もう一つは法人会員を増やして年会費(20万円)の増収を図ることである。彼は後者を選んだ。「会社四季報」から業種別リストを作成、近くの会社訪問から始めた。107歳まで生きた木彫家平櫛田中の「いまやらねばいつできる。わしがやらねばだれがやる」の言葉をそのまま実行した。イラクで志半ばにして倒れた奥克彦大使も「今やらないでいつやるんだ。今に精一杯死力を尽くせ」が口癖であった。初年度は19社を新しく入会させた。翌年度から経済部の協力を得て会員拡張をした。スポニチの社長をしていた私のところにも畠中君が来たのもこのころである。もちろん入会して毎月、アジア調査会の講演会に出席、見聞を広めた。彼の在任中の10年間で合計183社が新入会した。黒字となった。講師の選定、シンポジウムや研究会のテーマなどに細心の注意を払い、時代を先取りし、時宜にあった問題を論じてもらい、大いに成果を上げた。平成元年に設けた「アジア・太平洋賞」はユニークな賞であった。事業がうまくいくには毎年のように何か価値をプラスしてゆかなければならない。畠中君はそれを心得ていた。だから大阪の毎日ホールの再建、情報サービスセンターの創設など数々の業績をあげている。平成8年5月65歳の定年で畠中君はアジア調査会をやめた。この時は彼に送った私の言葉が紹介されている。「経営は人なり…と言いますが、体で分かっている人はたくさんおりません。あなたのような人は終身、専務理事させておけばよいのです。この動乱の時代”きまり”は何の役に立ちません」今もこの気持ちは変わらない。
 畠中君が青島育ちとは知らなかった。私は小学校をハルピン、中学校を大連で過ごした。昭和8年から昭和18年までである。彼は昭和7年から昭和21年まででほぼ同じ頃二人は満州と中国で育っている。「12年間住んだ素晴らしい青島。赤い屋根が続く太平路の洋館。緑のアカシアとポプラ並木。あの天を突くような二つの十字架尖塔のカトリック教会・・・」この青島(チンタオ)の風物・風土は人間形成の上で大きな影響を与える。彼の悠揚迫らぬ態度に中国の大人の風格を感じる。畠中君の人生の歩み方に納得するものがある。私なら本の題名を「大陸だらぼち記者 奮闘記」とする。

 「70歳で完全リタイアご苦労さま以後は書斎で自分史を書きて」(玉恵)