2009年(平成21年)5月1日号

No.430

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茶説

いのち燃ゆ
−乃木大将の生涯をよむ
 

牧念人 悠々

 乃木神社・中央乃木会監修「いのち燃ゆ−乃木大将の生涯」(近代出版社刊・平成21年2月5日初版発行)を読む。この本は乃木将軍の生涯とその人柄の形成の秘密を物語風に構成され、きわめて読みやすい。平成4年に出されたものを多くの青少年に読んでほしいと今度、復刻された。乃木将軍については昨年、毎日新聞から出版された古川馨著「斜陽に立つ」を読んで本紙の「茶説」(2008年7月10日号)で「乃木希典大将”愚将説”を排す」を紹介した。さらに大正精神史(1月20日号「安全地帯」)でも殉死の状況を取り上げた。
 「無人は泣き人」と弱虫であった希典少年がいかに鍛えられたかが綴られる。いかに子供時代のしつけが大切であるかがわかる。子供は親にとって「友達」ではない。子供の言うことを聞くだけが親ではない。にんじん嫌いの無人へ母親は毎日毎日、にんじんのおかずを出したという。にんじんはガンにも動脈硬化にも高血圧にも効く。またすい臓がん,肺がん、下痢に薬効がある。
 乃木さんの左目が見えなかったとは知らなかった。寝坊してなかなか起きてこない無人の蚊帳を母親が片づけている際、蚊帳の釣り手の金具が無人の左目にあたりそれが元で失明した。母思いの無人はそのことを死ぬまで誰にもはなさなかった。乃木大将のお通夜の席上、妹キネが初めて人に打ち明けて分かった。
 無人改め源三が家出をしたのも知らなかった。行く先は吉田松陰の叔父に当たる玉木文之進であった。玉木は学問に優れていただけでなく人柄は厳格、無欲。郡奉行も務め、貧乏な百姓には進んで農機具を買い与える、人から尊敬される人であった。源三にとって人生の師となる。土と親しむことによって誰にも負けない体力と気力を培った。その上、玉木から学問を教わり、松蔭の「士規七則」の教えをたたき込まれた。子供は家出をするなら行く先を選べと言うことであろう。
 源三から文蔵と名を改める。時代は江戸から明治と激動、その中で悩み、苦しみながら文蔵は精一杯に生きる。明治4年11月、文蔵は陸軍少佐になる。時に23歳であった。かくして40年間あまりの陸軍生活が始まった。前原一誠の「前原の乱」で弟・玉木正誼が戦死、恩師玉木文之進が自決する。歩兵14連隊長の時西南戦争では、「軍旗喪失事件」を起こす。明治11年、静子と結婚する。姑との仲が上手くゆかず友人が離婚を勧めるが乃木中佐は「静子と離婚する日は彼女の身体が冷たくなった日です」と答える。今時このように答える亭主は皆無と言って良いだろう。
 39歳から40歳にかけて乃木少将はドイツへ留学する。そこで得たのは「ドイツは自分の国の伝統を大切にし、とても質実な国である」というものであった。ドイツの軍隊と庶民の生活の中に自分が学んだ日本の武士道の姿を見た。「軍旗喪失事件」が吹っ切れた瞬間でもあったと言えよう。帰国後「粛軍の意見書」を提出すると共に軍服中心の日々が始まる。近代化を急ぐ上層部には乃木の精神論は受け入れられなかった。乃木将軍は、戦場で生きるとか死ぬとかは問題でなく、軍人としていかに戦うかが最も大切なことであった。
 かくして日清戦争、日露戦争を戦う。難攻不落の旅順も155日間5万9千4百人(内戦死者1万五千4百人)の死傷者を出して決着がついた。戦い終わって両軍兵士は「昨日の敵は今日の友」と握手した。乃木大将の戦後は遺族と傷病兵を見舞う日々であった。私財を投じて「傷病者病院」(廃兵院)を作り、国からの賞金をすべて部下に分かち与えた。
 さらに学習院の院長となり、子供達の教育に専心した。乃木院長を慕った迪宮様(昭和天皇)には無言のお別れをしたときも愛読書の「中朝事実」を献上された。
 明治天皇が崩御された後乃木夫妻の殉職は自然な最後であった。乃木大将は今日よりも明日、明日よりも明後日を立派に生きようとされた。すでにこの世の生死を乗り越えていた。
 乃木大将を愚将呼ばりした作家がいる。この本をとくと読ましたいと思う。