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安全地帯(247)
−信濃 太郎−
田中智学と石原莞爾について(大正精神史)
田中智学が「国柱会」を名のったのは大正3年11月3日である。それまでは「立正安国会」といっていた(明治17年創設)。日蓮の「われ日本の柱とならん」の誓願からとった-。彼は多くの著名人・文化人の支持を得ている。名をあげれば坪内逍遥、高山樗牛、田中光顕、中里介山、姉崎正治などである。田中智学はアイデアマンであった。機関紙の発行、書籍による布教を行なった。日刊紙「天業民報」は宮澤賢治や石原莞爾も愛読している。教書だけでなく戯曲、狂言などの本まで3百書を世に出した。もちろん講演会も全国で開いた。いつも超満員であった。どこか人を引き付ける魅力を持っていたのであろう。坪内逍遥の新文芸協会のために戯曲「佐渡」を書き下ろして歌舞伎座で上演もしている。逍遥が文芸協会を解散したのは大正2年7月8日である。6月の帝劇における「ジュリアス・シーザー」が最後の公演であった。この文芸協会の分身が島村抱月・松井須磨子の芸術座になる。抱月・須磨子の「復活」・帝劇公演が大当たりするのは大正3年3月である(3月25日から5日間)。逍遥を智学が応援する気持ちがよく理解できる。
中里介山は大正2年に都新聞に連載された小説「大菩薩峠」を智学に舞台化の話をしている。大衆文学の先駆となった作品で、介山は「題材を幕末維新の時代に取った一つのロマンス」といっている。田中智学は「中里介山は一切衆生の業相を曲尽して、大乗法楽遊戯三昧を、凡下の筆に描写して見るためだ」と解説する(中村文雄著「中里介山と大逆事件」三一書房)。確かに智学は才能豊で、多彩な活動をみせる。写真、新聞連載、上映会、牛乳店経営、しかも毎朝配達のビンに「乳歴」のビラを張り付け、仏教の道とくらしのミニ百科の二つの記事を載せる。鉄道の駅、待合室に機関紙「妙宗」を配布する。現在、メディアミックスといわれるが智学はそれをすでに実践していた。
在家仏教団体として日蓮宗を説く智学は、日本の国体こそが全世界の指導原理であるという。大正11年11月雑誌「改造」の山本実彦さんの招きで日本を訪れた科学者アイシュタインも同じようなことを言っている。「世界は進むだけ進んでその間、幾度も闘争が繰り返され、最後に闘争につかれる時が来るであろう。そのとき、世界の人類は必ず真の平和を求めて、世界の盟主をあげねばならぬときが来るに違いない。その世界の盟主は武力や金力でなく、あらゆる国の歴史を超越したもっとも古く,且つ、貴い家柄でなければならぬ。世界の文化はアジアに始まってアジアに帰り、それはアジアの高峰、日本に立ち戻らねばならぬ。我らは神に感謝する。天が我ら人類に日本という国を作っておいてくれたことを」アイシュタイン博士も日本の国体(家柄)に注目したのである。智学は法華経至上主義をとらなかった。日本は神の国であり天皇のしろしめす国であるとわきまえていた。また日本は法華経を流布すべき特別な使命を持っていると信じていた。法華経の全世界伝道を通じて天皇が世界の盟主になるということである。智学の話を聞いて石原莞爾は入信した。大正9年4月、石原31歳、大尉の時であった。ドイツ留学(大正12年1月から大正14年10月)中に智学の三男、里見岸男の面倒を見る。石原はドイツで関東大地震の報を聞く。ベルリンから妻に宛てた手紙にはこの地震は日蓮に匹敵するような菩薩が東京に現れるしるしで、その力によって法華経が日本の国教になり、世界大戦争が起きると、とあった。世界大戦争は2,30年後に切迫していると述べている。日付は大正12年9月14日である。それから19年後の昭和16年12月に大東亜戦争が起きる。石原はその年の3月に待命となり予備役編入となる。著名な「世界最終戦争論」は前年の9月の発行である。石原はこの本の中で「宗教の最も大切なことは予言である」として日蓮聖人の宗教が、予言の点から見て最も雄大で精密を極めている」とする。
私の手元にある石原莞爾著「最終戦争論」経済往来社刊)によると、「八紘一宇」は智学が作った新しい熟語である。日本書紀に出ている神武天皇建国の詔勅の中の「六合を兼ねて以て都を開き八紘を掩うて宇(いえ)を為さん」から採ったものである。真意は日本の征服ではなく、道義に基づく世界統一の理想を述べたものである。智学が造語したのは昭和2年だという。石原はこの言葉を日本建国の理想を表す言葉として使用していた。法華経信者石原の宗教的ユートピア・満州国を建設、「五族協和・王道楽土」の夢は志と違って破れる。
「五族協和・王道楽土」といえばそれを実践した軍人がいる。後藤四郎中尉(陸士41期・のち少佐)である。この期は大正14年4月279名が予科に入校、昭和4年7月239名が本科を卒業している。2・26事件に同期生の栗原安秀、中橋基明、対馬勝雄の3名中尉が参加して処刑されている。後藤中尉も革新将校とみなされ陸大受検禁止、2期進級停止、内地に帰還を許さずの処分を受ける(昭和8年秋から昭和15年春まで満州奥地勤務、昭和15年春から昭和16年7月負傷するまで中支宜昌戦線)。昭和10年満州の奥地間島地区の鶏冠磊子に駐屯したころの話である。住民は朝鮮人、満州人あわせて数百人の貧農たちである。ここで小学校を開校する。先生は教職の経験のある一等兵、学用品、衣類、玩具は大連、奉天、新京の満鉄関係者から寄付されたもの。定期的に寄付をいただく。そのつど住民に配布する。さらに子供のために児童用の浴槽も拵えた。そのうち集落の細君や娘さんたちが入浴するようになった。いつの間にか「姑娘(くうにゃん)浴場」と名付けられた。敗戦を新設321連隊の連隊長として広島二本松で迎える。日本陸軍の歩兵連隊にあって軍旗焼却命令に反して軍旗を秘匿した唯一人の連隊長としても知られる。かかる軍人のありきである。
石原の原隊は山形県歩兵32連隊である。任官後(明治42年12月少尉となる)、とともに若松に新設された歩兵65連隊へ転出した。彼の著書「戦争史大観の由来記」によると、歩兵65連隊は東北各連隊から嫌われ者を集めて新設されたが、それが一致団結して訓練第一主義に徹したのである。陸大に入学したあとも休みを利用して下士官室を根城にして兵隊とともに過ごした日々が極めて幸福であったといっている。山形時代もそうであったが、石原は兵隊が好きであった。また兵隊から愛された将校でもあった。とりわけ若松時代猛訓練によって兵に対する敬愛の念が養われ、兵隊の一身を、真に君国に捧げている神のごとき兵にいかにしてその精神の原動力足るべき国体に関する信念・感激を叩き込むかに腐心した。石原の「兵は神なり」の信念は徐々に醸成されたと見るべきであろう。また、スコットランド人伝道医師、デュガルド・クリスティーの自伝的回想録「奉天三十年」(岩波新書・訳者矢内原忠雄。昭和13年11月20日大刷発行)を読む。石原はこれより前に原書で読んだのかもしれない。この本の中で張作霖が「兵を強くするためには軍隊に道義がいるそれが今、欠けている。ナポレオンは英雄だが彼は一つのものが欠けていた。道義、道徳的原理を持たなかった」と述懐しているのを知った。それ以来、石原の道義に基本をおいた神兵教育に拍車がかかる。京都の第16師団長になる(昭和14年8月)と兵営生活の改善を始めた。桑原獄著「市ヶ谷台に学んだ人々」(建帛社)には「石原の情勢判断は常に的確で神の予言に近いものがあった。大正末期において航空機の飛躍的発展と核戦争を予想し世界最終戦争を予言していることはあまりにも有名である」とある。
大東亜戦争間、石原の復帰を望む声があったが実現しなかった。石原が登場しておれば局面は大きく変わったであろう。歴史にはIFは許されない。
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