2009年(平成21年)5月1日号

No.430

銀座一丁目新聞

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花ある風景(345)

並木 徹

今年もまた長野・権現山の桜に会う

 恒例の長野・佐久市にある権現山の碑前祭に出席する(4月24日)。昨年は春が遅く桜が満開であったが今年はわずか「白妙」と「関山」(八重桜)が花を咲かせていた。元南御牧村長、依田英房さんが建てた「皇居遥拝所跡」の碑の前に集まった陸士59期生は18名であった。(首都圏10名、東海4名、石川1名、地元長野3名)
 嬉しかったのは佐久市長に当選したばかりの柳田清二市長が多忙の中、公務第一号の行事として来賓の挨拶をしていただいたことである。柳田市長は59期生がこれまで40年にわたって、戦争中この地域の国民学校に分散宿泊し、訓練に励んできた昔をしのびつつ交流を深め、さらには100本の桜を植樹しこの土地を大切にしてきたのに敬意を表すると述べて次のように挨拶した。「戦争を経験した世代の方々がすくなくなってきており、戦争が残した様々な傷跡や史実への認識が薄れてきているが、この権現山はみなさんにとって思い出深い大切な土地であるので今後もできる限り協力させていただきたい」
 三浦大助前市長時代権現山一帯の公園化の話があって予算もついたが一部地主の反対もあって頓挫した。柳田市長の話で地域を縮小して「碑と桜のある公園」として実現する可能性が出てきた。これまで地元市会議員として公園化に尽力していただいた坂本久男さんも今後の協力を約束してくれた。
 元村長の依田英房さんがここに遥拝所跡の碑を建てたのは昭和41年である。敗戦からすでに21年たっている。依田さんは「あの若者たちが敗戦の無念をばねに祖国再建のために頑張っている。その若者たちの志を形に残そう」と考えられたのだと思う。あとに続く若者が出ることを信じたに違いない。(2008年5月1日号「花ある風景」参照)
 柳田市長の挨拶で人間魚雷「回天」を黒木博司少佐とともに創案した仁科関夫中尉(海兵71期)が佐久の出身と知った。仁科中尉は殉職した黒木博司少佐の遺影を抱いて「回天」に搭乗、昭和19年11月20日、特攻「菊水隊」としてカロリン群島ウルシー泊地に突入、戦死している。
 昼食は例年の如く「佐久ホテル」で鯉料理をいただく。昔話に花が咲く。中川栄一君は石川県小松市から6時間かけて毎年、参加している。聞けば隊付きは私と同じ岐阜の68連隊であった。昭和20年2月から3月にかけて、歩兵科の同期生は全国の歩兵連隊に配属されて約1ヶ月の隊付き訓練を受けた。毎朝、座間の本校と同じく体操を裸で行い、兵隊さんを驚かしたものであった。弘前58連隊の隊付きにいった西村博君は上官から「風邪をひくからやめてほしいといわれた」という。中川君はお医者さんで今も時に応じて診療をしている。名古屋から来た小関基君とはこの春、仲間の鳥居崇君(半田市在住)が出した著書「戦争考」を話題にする(2009年2月20日号「花ある風景」参照)。ホテルの受付でいただいた「信州佐久の方言いろは番付(前編)(後編)には「おしとつ どうでやすい おらの こしゃた恋の味」「佐吾衛門さの 鯉は小諸の 殿様も よばれやした」とあった。