2009年(平成21年)5月1日号

No.430

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追悼録(346)

李方子さんを偲ぶ

 李方子さん(梨本宮方子)が亡くなれてから4月30日で20年になる(平成元年死去・享年87歳)。方子さんは大正9年4月、李王朝最後の皇太子、英親王垠殿下(当時陸軍中尉・陸士29期)と結婚された。「日韓融和」を目指した政略結婚であった。韓国では障害者福祉活動に献身されたことで知られている。その活動の中心となった障害者施設「明暉園」(明暉は垠殿下の書道の画号)と「慈恵学校」は今もある。産経新聞のソウル支局長の黒田勝弘さんが「故李方子さんのこと」を産経新聞に紹介していた(4月27日)。実は方子さんとご主人李垠殿下の話を3日前に友人の宮本弌朗君から聞いたばかりであった。子供時代を朝鮮で過ごした宮本君は朝鮮のことに深い関心を持っている。その時の話では戦後、李ご夫妻の日本から韓国の帰国はなかなか実現しなかった。それを朴正煕大統領(軍官学校2期・陸士57期)の計らいで56年ぶりに帰国できたということであった。何気なく聞き流していたが黒田支局長の記事で興味に駆られた。調べてみると、国際結婚、敗戦と時代に翻弄されながらも2人へ日韓を問わず温かい手を差し伸べた人々が存在するのがわかった。
 垠殿下の略歴を見ると、陸大を卒業して中将まで昇進する。戦時中は第一航空軍司令官を務める。同期生には有末精三中将(陸士・陸大恩賜・戦時中参謀本部情報部長)、佐藤賢了中将(国会の委員会で野次を飛ばした議員に“黙れ”と一喝して有名、東京裁判では終身刑の判決を受ける)などがいる。敗戦後、祖国韓国は垠殿下に冷たかった。殿下の帰国の要請に李承晩大統領は色よい返事をしなかった。李大統領は全州李氏で、李王朝の親戚筋に当たる。それにもかかわらず拒否したのは李殿下が帰国したら国民の同情が集まり、自分の立場が悪くなると思ったからだといわれている。それだけではない。ご夫妻が住んでいた赤坂の邸宅(赤坂プリンスホテル旧館)がご夫妻の私有財産でもあるのに、駐日代表部が使うからかえせと要求する始末であった。一人息子の玖さんの米国留学のため必要なパスポートをめぐっても嫌がらせを受けた。昭和36年朴正煕が国家再建最高会議議長になると、垠ご夫妻のもとへ特使を派遣、生活費、療養費(昭和33年3月垠殿下は脳血栓で倒れ、療養中)の一切を韓国政府が保証すると伝えた。坭殿下の病状を知ると「もし日本で亡くなると民族の恥になる。駐日代表部に連絡して費用は韓国政府が出し東京一の病院に入院していただきましょう」といって帰国に際しての二人の相談相手まで推薦してくれた(渡辺みどり著「日韓皇室秘話李方子」読売新聞社刊)。私は垠殿下も朴議長も同じ民族であるが年の差が離れているといえ同じ軍人として相武台(神奈川県座間市の陸軍士官学校のあったところ)で鍛錬した絆の強さを感じざるをえない。昭和38年11月ご夫妻は日航のチャーター便で垠殿下は病臥したまま帰国した。垠殿下67歳、方子さん63歳。ご夫妻の国籍は復活され大韓民国の国民になった。
 ソウル聖母病院に入院された垠殿下の容態は芳しくなく、昭和45年5月1日なくなられた。享年73歳であった。
 明暉園は昭和42年に建設され、耳の聞こえない子供や小児まひの子供の施設である。明恵学校は昭和53年京畿道光明市鉄山里に建てられた本科と実習科に分かれ、本科では13歳から18歳までの身体障害者に1年かけて基本教育と実習をする。実習科では本科を卒業した学生に技術者として独り立ちできるように指導する。ミシン、刺繍、編み物、洋裁、電子部品の組み立て、建築設計など技術を習得する。この福祉事業のために方子さんは大変苦労をされた。方子さんが亡くなった時、韓国の新聞は「自らの不幸な人生を社会活動への献身で美しい人生に変えた」と報じた。
 

(柳 路夫)