花ある風景(337)
並木 徹
作家・澤地久枝さんが朝日新聞から「朝日賞」を贈呈された(贈呈式1月28日・帝国ホテル)。賞の贈呈の理由は「戦争へと至った昭和史の実相に迫るノンフィクションを現した業績」である。これまで日本の近現代を問うドキュメンタリーを書き続けた原動力は「軍国少女だった自分への屈辱感」であったという。敗戦時の満州からの引き揚げで難民になった想像を絶する辛酸が原点と思う。知り合ってから35年を超える。「妻たちの2・26事件」(中央公論・昭和47年2月10日第1刷)を出版してから一貫してぶれることがなく、「女の一本道」を歩んできた。わたしも満州育ちの軍国少年(澤地さんより4歳年上)であった。敗戦時は陸軍の学校に在学中で、8月15日は富士山のふもとで野営中であった。復員にあたり生徒隊長からの言葉は「生き恥をさらすことに甘んじ、士官候補生の矜持を忘れるな」ということであった。敗北感・挫折感の方が強かった。戦後間もなく、新聞記者の道を選ぶ。思想は是々非々主義で、あっちへ行きこっちへ行き、常に「正義の味方」のような顔をする。平和主義であるのは澤地さんと同じだが、そのほかでは全く対極的な立場にいる。私は複数のじくざくの道を歩んでいるようである。
毎日新聞社会部長時代澤地さんには連載企画の協力、座談会の出席その他、署名原稿で、また出版局長の際にはミッドウエー海戦を題材にしたドキュメンタリー「蒼海よ眠れ」(毎日新聞社・昭和59年9月20日第1刷刊)などで大変お世話になった。むしろ毎日新聞社が「毎日芸術文化出版賞」をもっと早く出すべきであった。その意味では朝日新聞社には目利きの記者がいると感心する。
澤地さんが自分の生き方に覚悟のほどを決めたのは今から8年前に出した「私のかかげる小さな旗」(講談社・2000年10月25日第1刷発行)の冒頭の50行の詩だと思う。70歳を迎えての決意表明の詩であった。最後の20行を記す。
「この、ごく常識的な発言をするのに
勇気が試される時代がついにきた。
信ずるままを、飽くことなく言う。
それ以外、わたしのような人間には
生きてゆく道はない。
投げつけられる非難の言葉が、
「バカ」であったり「アカ」であっても
それにたじろぐまい。
無視され疎外されようとも、
わたしはわたしの道をゆこう。
すべては「個」から,
「一人」からはじまり、
いかなる「一人」になるかを決めるのは、
己自身である。
いま、あえてかかげようとする旗は、
ささやかで小さい。
小さいけれど、誰にも蹂躙されることを
許さないわたしの端である。
かかげつづけることにわたしの志があり、
わたしの生きる理由がある。(2000年9月3日)
「小さい旗をいつまでも掲げてほしい」とこの本を紹介した記事(2000年11月20日号「花ある風景」)の結びに書いた。同じ言葉で今回も結びとする。
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