2009年(平成21年)2月10日号

No.422

銀座一丁目新聞

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安全地帯(239)

信濃 太郎

「大正政変」とは何か(大正精神史・政治編@)

 政治にふれる。「富国強兵」を掲げて突走してきた日本の政治はそのまま惰性で生きようとしたところがあった。時の政府は第2次西園寺公望内閣である。明治45年5月15日行われた第11回総選挙で西園寺公望が総裁を務める立憲政友会が大勝し、209議席を獲得、野党の立憲国民党が95議席、中央俱楽部31議席、無所属46議席にすぎなかった。だが大正元年の12月5日に総辞職した。直接の原因は陸軍の2ケ師団増設問題である。日露戦争が終わったもののロシアは極東の兵備を着々と進めていた。日本は明治40年平時編制を改正して常備18師団を基幹とした新態勢に移行。陸軍の平時人員数を24万4804名とした。明治43年8月韓国を日本に併合したことによって韓国に駐屯させる2ケ師団の増設が必要と陸軍は主張する。大蔵大臣山本達雄は「無いそでは振れない」といって断る。この言葉が一時、流行語となる。陸軍大臣の上原勇作(士官生徒3期・元帥)も譲らなかった。西園寺首相が説得に当たるも聞かなかった、困り果てた西園寺は陸軍の長老である桂太郎に調停を頼んだが断られてしまった。閣議は増師不急説で上原陸相の主張を退けた。ところが、上原陸相は大正天皇に直接拝謁して辞表を提出した。国務大臣はいつでも陛下に拝謁を願い出て国務について奏上することができるが直接辞表を出すのは極めて異例であった。そこで西園寺は軍閥の長老山形有朋に後任の陸軍大臣の推薦を依頼したが山県に拒否された。後任の陸相の補充ができないので「閣内不統一」ということで内閣は辞職のやむなきに至った。軍の横暴を西園寺首相が辞職という形で応じたともいわれる。世の言う「大正の政変」である。醜い政争の始まりであった。ちなみに第19師団が編成されたのは大正5年、第20師団は大正8年である。
 当時、日本国内は慢性的な不況ムードであった。東京市電従業員6千余名がストライキで大晦日の夜都内の交通は途絶した(明治44年12月31日)呉海軍工廠で2千5百人ストライキ(明治45年3月29日)など各地に労働争議が起きた。米価暴騰新記録(正米相場一升31銭八厘)、友愛会設立(大正元年8月1日)など労働の権利を守るための運動が活発化してきた。政府は日露戦争の公債負担と軍事費の膨張に悩んでいた。陸軍は韓国併合(明治43年8月)と三百年にわたる清朝が倒れ中華民国が生まれた「辛亥革命」に対処するため山縣有朋を中心に軍備の拡張を画策。明治43年に独自で「帝国国防方針」を決定する。一切は軍の統帥部が単独で決めた。西園寺内閣は行政、財政整理を取り組む方針を立て、各省予算1割削減を目指した。山県はこれを嫌った。西園寺がこれを機会に「与党政友会の勢力を強めるのではないか」という疑心暗鬼からである。政党勢力を強めるのは大衆の政治へのめざめを意味した。このような背景のもとに陸軍は増師問題を提出したのであった。
 こんなエピソードもある。殉死の4日前の9月9日乃木希典は芝高輪台町の山本権兵衛海軍大将(海兵2期・大正2年2月総理大臣となる)宅を訪れて2ケ師団増設について意見を述べている。乃木大将は経費削減の理由から増設に反対であった。今は国家財政を強化すのが先決であり、師団増設は一朝ことが起きた際に行うべきである。当面は幹部養成に意を注げばよいというものであった。確かに一理ある。だが、当時陸軍では少数意見であった。
 上原勇作は宮崎出身、明治10年5月、西南戦争の最中に100名が陸軍士官学校に入校した。12年12月に卒業、工兵の恩賜であった。陸大に行かずフランスに留学する。日露戦争では第4軍の参謀長で戦功をたて、その功績で男爵となる。少将で男爵になったのは旅順攻略戦で第3軍参謀長の伊地知孝介(士官生徒2期・中将)の二人だけである。なお第4軍軍司令官野津道貫元帥は岳父である。上原勇作は若い時、野津家の書生を務め陸軍に入る。
 上原陸相辞任問題で世間は、初めてこれまで関心のなかった陸海軍大臣の補任資格の重大さに気がついた。その資格が現役大、中将に限るという条項が陸海両相のいずれかに倒閣の意図があれば、軍部大臣の引き揚げ、後任を推薦せずによって容易に目的を達成することができるのだ。これまでの陸海両相の補任資格の制度経過を見ると。明治24年7月までは将官あるいは武官の表現の差があっても大臣の補任資格は明示されていた。明治24年7月松方正義首相によって軍部大臣の補任資格が削除され、明治33年の改正までの10年間は資格を必要としなかった。削除する際、明治天皇は伊藤博文に御下問があった。伊藤博文は次のようにお答えした。「立憲君主制を維持するには、兵権は独立し天皇おんみずから直轄すべきである。このためには、軍制を管理する大臣は党利党略に動かされやすい普通の政治家より軍事上に練磨し、軍制及び軍人の情状に熟達した軍人を充てるのが最上である。すなわち軍部大臣は武官専任制にすべきである」この伊藤博文の考えが大正・昭和へ尾を引くことになる。制度を一度歪めると、それが前例となり口実となる。日本政治の悪いところである。
 大正2年の改正で大臣補任の資格は現役から予後役に拡大された。当時議会では軍部大臣専任に対する批判が強かった。とりわけ政党政治を圧迫するものとして大正8年3月には「陸、海軍大臣の補任資格撤廃案」が提出されたほどであった(「日本憲兵正史」より)。
 昭和11年には再び現役大・中将に限定された。因果は巡る。上原陸相の時の軍務局長は田中義一(士官生徒8期・陸大8期・大将)、軍事課長宇垣一成(陸士1期・陸大12期恩賜・大将)であった。それから24年後の昭和12年、宇垣に総理大臣の大命が下った時、陸軍軍部の反対で陸軍大臣が得られず宇垣は組閣を断念するはめになった。歴史は皮肉な展開を見せる。