翌朝美穂子の勧めに従って、冬の間は不自由しがちな野菜を買い込んだ後、それをパッキングするのに予想外に時間をとられた。ポカラの東約十五キロを流れるビジャヤプル・コーラの河原に着いた時は、ホテルを出てから二時間四十五分がたっていた。白い石と砂が埋めた広い河原の中央だけを透明の水が細く流れている。川の上流に屏風のように立つ緑の山並みの上に、アンナプルナ連峰の東端の峰ラムジュン・ヒマールの白い頂きが見えた。その頂きからなだらかに西に延びた稜線が、柔らかい冬の日差しを受けて光っている。
浅く速い流れの中に置かれた飛び石伝いに渡ったところが、尾根道への取り付きだった。ホテルで借りた大型のバックパックに食糧をいっぱいに詰め込んでいるウダヤは、さすがに一歩一歩体を左右に揺すってリズムを取りながらゆっくりと登った。少し距離を置いて後に続く慶太も自分のバックパックを自分で担いでいる。いつもはウダヤが担ぐので、本格的に荷物を背負って歩くのは今回が初めてだった。
尾根を三つ越えた。その間に小さな集落を二つ通り過ぎた。四つ目の大きな尾根の取っ掛かりに、農家が三軒並んでいた。グルン族特有の軒を連ねた集落の構成である。ウダヤが庭で日向ぼっこをしている老人に声をかけると、老人はしわがれた声でウダヤに返事をしながら上の方を指した。尾根から広がる斜面に、かなり大きな集落が見える。
「あそこがモージャのようです」
ウダヤは慶太に説明する時、老人にならって指を差した。
あと三百メートルも上れば、その集落に着く。そこには百合がいる。慶太は八ヵ月前に別れた百合の顔を思い出していた。短い髪、細く長いくっきりとした眉、その下の目を細めて、百合は雪の頂きを眺めたものだ。今もそうして、ラムジュン・ヒマールを仰ぐのだろうか。後少しで登りは終わると分かったせいか、ウダヤの足は速くなった。慶太も懸命にその後を追った。荷物を背負っているにもかかわらず、ウダヤの歩調に合わせられる自分が不思議だった。呼吸は速くはなっているものの、それは喘ぎではなかった。あとわずかだ。次第に自分が興奮してきているのが慶太には分かる。
突然子供たちの声が聞こえてきた。
「ナマステ、ナマステ、ナマステ・・・」
声の方を見上げると、それは今登っている尾根の左の小さな谷を挟んだ隣の尾根の斜面からだった。幼い女の子を含む数人の子供たちが慶太たちに歓迎の挨拶を送ってきたのだ。甲高い声が谷間を満たし、尾根を越える。子供たちの興奮で村人も異邦人の来訪を知るのである。五分ほど歩くと、細い道との分かれ道に来た。ウダヤは立ち止まると、その手前の農家に入っていって聞いた。庭に出てきた女がこちらだというように左手をあげて合図した。尾根筋の道はいわば村の幹線道路である。そこから右の斜面へ、あるいは左の谷へと人がやっと一人通れるぐらいの細い道が枝分かれしている。ウダヤは大歓迎をしてくれた子供たちが見えた谷側とは反対の斜面を巻く右手の細い道に入っていった。その奥に農家が一軒、さらに数十メートル離れて、もう一軒の農家が見えた。ウダヤが奥の二軒目の家がチェリーの住んでいる家だと言った。
ウダヤは軒下にバックパックを置くと、今夜の自分の泊まるところを探しに出た。慶太も自分のバックパックを下ろし、汗をぬぐいながら、ひょっとして突然百合が顔を出すのではと、一瞬不安になった。その時体の小さい主婦らしい女が、四つ並んだ部屋の手前二番目から出てきた。慶太を見て、「ナマステ」と声をかけて、にっこり笑った。瞬間太く深いしわが額と頬に走った。女は何も言わずそのまま庭の下の畦道に下りかけた。慶太が急いで、
「チェリーの友達は・・・?」
と英語で聞いた。女は一番奥の部屋を指差した。英語が分かったというより、日本人の慶太の顔から、訪問者の意を察したのだろう。女は小さな家庭菜園の横の畦道を下りていって薮の向こうに消えた。慶太は改めて腰にぶら提げていたタオルで顔を拭いた。汗はとっくに引いている。どこからともなく冷気が流れてきて、ポロシャツだけでは寒いぐらいだ。朝着ていたセーターは登りの途中で腰に巻き、以後そのままである。そのセーターを手に取った。かぶっていた野球帽を脱ぎ、汗で押さえつけられた髪を指ですくと、帽子のために蒸れていた頭は冷たい空気に触れて爽快だった。左手にセーター、右手に帽子を持って、一番奥の部屋の様子をうかがった。人のいる気配はない。家全体が静まり返っている。
慶太は奥の部屋に近付いた。板戸は半分内側に開いている。しかし窓のない部屋の中は真っ暗で様子は分からない。慶太は軒下の土間に上がって、中をのぞこうとした。その時中でかすかな音がしたように感じた。しかしそれは一瞬のことでまた静寂が戻った。内側に開いたドアが光を遮り、外と中との明暗の差が激しいために、軒下からでは中は何も見えなかった。慶太は何か声をかけるにも適切などんな言葉も思い浮かばず、大きな深呼吸をすると、努めてさりげなく、ゆっくりと声を出した。
「山村さん、こんにちわ、佐竹ですが・・・」
それはまるで馴染みの御用聞きか何かのようで、それにしては滑らかな勢いというものがなく、慶太は決まり悪さから思わず口元を拭った。慶太の声に返事はない。奥行きのわずかな部屋なので、小さな声でも聞こえないはずはない。様子をうかがうために、慶太は一度庭まで下がってもう一度家全体を見回した。下に四部屋、一番奥の部屋だけ二階がついている。この奥の部分は後から建て増したような造りである。慶太は今度はこの奥の二階に向かって庭から声をかけた。
「こんにちわ。佐竹です。ニューヨークから来ました」
前より幾分リズム感はあるものの、どこかぎこちなさが残っていた。やはり返事はない。その代わりに菜園の下の方のあまり遠くないところから、牛の鳴き声が聞こえてきた。慶太はまたこれまでより数段大きな声で、
「こんにちわ、佐竹です」
と言った。するとまるでそれに応えるように、また牛の太い鳴き声が戻ってきた。慶太の緊張は一気にほぐれた。
「牛ちゃんがお留守番か。ドアを開けたままというのは不用心だな・・・」
慶太は独り言を言って、またドアに近寄った。もう一度中を見たが、やはり何も見えない。
「用心が悪いから、締めておいてあげよう」
慶太が四角い木切れを打ち付けただけのドアの取っ手に手をかけた時である。部屋の奥でカタッと何かと木がぶつかる小さな音がした。今度は間違いなく聞き取れる音だった。一瞬ためらった慶太は、首を中に突っ込んで様子を見ようとした。すると部屋の一番奥の暗闇の中で、白いものがすっと動いた。それはシーツが風に煽られたようでもあり、白い生き物が動いたようでもあった。もう少し確かめようとして、慶太が敷居をまたいで部屋の中に片足を踏み入れようとした。その時である。
「ダメです、今入ってきたら・・・」
喉の奥から絞り出すような女の声がした。日本語である。慶太は息をのんだ。野球帽を持った右手は取っ手に、右足は少し高くなった敷居にかけたままである。
「ごめんなさい・・・。今お会いすることは出来ません・・・」
女は低い押し殺した声で言った。むせび泣いている。ずっと息を殺して、声が出ないように抑えていたのだろう。慶太は瞬間冷凍されたように、手は取っ手に、足は敷居にかけたまま動けなかった。何秒間か、何分間か分からない。上げていた足を外に下ろし、ドアの取っ手から手を離したのはかなりの時間がたってからだった。慶太の体が完全にドアの外に出たその瞬間、奥の白い物がさっと動いて、音もなく近付いたかと思うと、バタンと中からドアを閉めた。
板一枚向こうで、女は鳴咽している。女が手で押さえているためか、あるいは背中でもたれているのか、鳴咽で震えるたびに板戸がきしんで揺れた。慶太はその板戸にそっと手の平をつけた。その手に女の震えが伝わってきた。長い沈黙。板戸の軋みと震えだけが続いた。しかしそれは次第に緩やかになっていった。
「ごめんなさい、遠くから来ていただいたのに・・・」
女は声にならぬ声で詫びた。慶太はようやく我にかえり、深く息を吸い込むと板の向こうの女に言葉をかけた。
「いや、僕の方こそ失礼しました。自分勝手な考えで来てしまった。心から謝ります。無事活動されていることを谷沢美穂子さんから聞きました。元気でおられることが分かれば、僕には十分です。・・・。少し野菜などを持ってきましたので、軒下に置いていきます。それから・・・」
と言いかけて、止めた。ニューヨークから小さなお土産を持ってきたと言おうとしたのだった。しかし野菜と一緒に置いていけば分かることである。「それから」と言ったせいか、女はじっと次の言葉を待っているようだった。
「それでは・・・」
慶太は言い直して、ウダヤが置いていった野菜の入ったバックパックに手をかけた。そのときである。
「いいえ、違います」
と女は言った。
「佐竹さん!」
女は初めて名前を呼んだ。
「あまりにも突然のことで・・・、私、どうしていいか分からないのです・・・」
女は涙声で、喉を詰まらせた。
「でも帰って欲しいというのでは・・・違うんです。そうじゃなくて・・・、私どんな顔でお会いすればいいのか・・・。ああ、あまりにも突然のことで。今とても佐竹さんにお会いできる顔と格好じゃない・・・」
女はやっと声を絞り出すようにしてこれだけ言った。突然の来訪者に大きな驚きと戸惑いを覚えているのが短い言葉に表れていた。当然である。女は恐らく、慶太が庭に入ってきたときから、ただならぬ人が訪ねてきたことを察知したのに違いない。その突然の訪問者にどのようにして会っていいか分からぬため、本能的に部屋の奥に身を隠そうとしたのだろう。自分が落ち着きを取り戻す前にやってきた男は、部屋をのぞいた。女は息を殺すほかはなかった。
「お願いなんですが、今から、一時間ほど、お時間をいただけますでしょうか。少し心を鎮めて、その上で、お会いしたいと、思います・・・」
女は一言ずつゆっくりと小さな声で話した。涙でくもっていた声も、少し澄明さを取り戻していた。
「先程いらした尾根の道をずっと上がって行くと、高台になった所にヘルスポストがあります。そこまで行くと谷の両側に広がる村の様子が見渡せます。とってものどかな眺めですので、そのあたりでしばらく時間をつぶしていただけますでしょうか。ちょうど一時間・・・」
百合の声は落ち着いてきた。先程の会えないという女の言葉に体全体が硬直していた慶太だったが、今ささやくように話す女の言葉で再び自分の体の中に血が巡り始めたのを知った。
「分かりました。どうぞゆっくりして下さい。突然驚かせてしまったことをお詫びします。言われるとおりに、村を見てきます」
慶太は、バックパックの上に置いてあったカメラバッグを取って庭から出て行きかけた。
「お疲れなのに、申し訳ありません」
女のつぶやくような声と共に、ドアがきしんで少し開かれる音がした。女がドアの隙間から慶太の後姿を追っているのを慶太は背中に感じた。