横山房子さんの全句集が出版された(角川書店・平成20年9月1日刊)。なくなってちょうど1年目である。本の「あとがき」で「自鳴鐘」の後を継ぎ主宰者となった寺井谷子さんは「小柄で楚々とした一人の女人のやさしさと勁さ。それを支えたのは、『俳句』への変わりない信頼と愛情であった」という。私は本紙「追悼録」(昭和19年9月10日号)で次のように表現した。「房子さんはあくまで謙虚で優雅さをうしなわなかった人である。燃えるような情熱を心に秘めながら俳句の道と関わった。句は人柄を表す。『さくら咲く方へ未明の道選ぶ』心からご冥福を祈りする」この人らしい句だと思い紹介したのだが残念ながら今回の全句集には漏れていた。この房子さんの句をどこからとったのか歳時記、俳句の本などを調べたが出てこなかった。書斎をかき回して探し当てた。「アサヒグラフ」の増刊号「女流俳句の世界」(1986年7月1日号・朝日新聞社)にあった。グラビア「女の歳時記」の花の項の7人の中にあった。この号には房子さんが67人の現代女流俳人群像の一人として紹介されている。
全句集に目を通しなが心に響いた句をあげる。
房子さんははじめプロレタリア文学にあこがれていた。俳句は人に勧めれて20歳から始めた。昭和13年10月、3人の子供を持つ16歳年上の白虹と結婚する。23歳の時であった。
北風すさぶ海獣闇にゐて咆ゆる(昭和11年―12年・「背後」)
月光のデッキに二人の刻流れ(昭和13年―14年「背後」)
蚰蜒(げじげじ)が子に距りしとき殺す(昭和23年―26年「背後」)
更衣多情と知りてなほ待てり(同)
善女ならず日焼けて鶏に囲まるゝ(同)
房子さんは家事の傍ら「自鳴鐘」発行の雑事にかかわりつづけた。めまぐるしい生活記録の断片にすぎないと思われて句集を編む自信を失いかけていた。そんな時に気づく。毎号の「自鳴鐘」の選後評「共に歩む」に取り上げられた房子さんの句が百句を超えていたのだ。白虹が選評によって房子さんをねぎらい、励ましていたのである。
火をつけぬ煙草咥えて梅を折る(昭和48年―53年「侶行」)
花の宿父を愛せし人に逢う(同)
メーデーの細胞いまはつつじ提ぐ(同)
原爆忌乾けば棘をもつタオル(同)
母のもと辞すに唇塗る花ざくろ(「天壇」昭和54年―55年)
天壇の扉の一枚に秋日炎ゆ(同)
昭和58年11月18日白虹死す。享年84歳。横山白虹全句集の最後の句は「賀詞きいて青衣ひとり泣けばよい」であった。献身的な妻房子に捧げた句である。房子さんがなき夫に捧げたのが次の句であった。
黄落の天へ柩と翔けゆかむ(「流燈」昭和59年)
問うことの多き遺影に冬日差(同)
冬の虹呼ばれしごとく振り返る(「かまくら」昭和60年―61年)
天高し盤のゑくぼの忘れ潮(同・祝谷子句集『笑窪』)
桐の花いくたび仰ぎても杳か(「月目の嶺」昭和62年―63年)
リラ咲いて人間嫌ひとなりゐたり(「能舞台」平成5年〜年)
冷まじき摺り足に追う子の幻(同)
蠟梅と同じ日差しの中にあり(平成15年「返り花」)
さくら大樹切られ売地の標立ちぬ(同)
幾何の問題寒星となり解き居らん(平成18年「返リ花」)
「自鳴鐘」9月号寺井谷子さんの「房子作品一句鑑賞」に挙げたのは「白萩を起こさんとしてなほこぼす」であった。この作品は全句集には「十三夜」(平成9年から10年)に掲載されている。谷子さんはつづる。「白虹は『泰山木をもって我が家の王樹とす』と詠んだ。その泰山木は今も毎年、真っ白な花を咲かせ続けている。その泰山木の近くに房子が愛した白萩がある」
「白萩の女が飛天となってまで嘆く姿は、妖艶なまでに美しく哀れである」と作家古川薫は全句集に書く。私は白萩の想夫恋をうらやましくてしょうがない。このような女性はまずこの世には少ない。それはその人の俳句にすべて表現されている。
(柳 路夫)