寺井谷子さんが主宰する俳句誌「自鳴鐘」の「復刊60周年記念大会」に出席する(6月15日・北九州市・ウェルシティ小倉九州厚生年金会館)。20年ぶりの小倉を訪ねるというのでいささか興奮する。7年半、厚生年金会館隣の団地に住んだ。ここで新興俳句の九州の旗手・横山白虹、房子、寺井谷子、寺井宏、横山日差子を知る。白虹が
「自鳴鐘」を創刊したのが昭和12年6月、38歳であった。翌年には休刊する。36ページの薄い「自鳴鐘」を復刊したのが昭和23年である。その復刊の辞にいう。「芸術の仕事は否定の集積である。昨日の作品の上に再び昨日の作品を重ねて何かあろう。この意味において反逆の精神は最も尊重されねばならない」。昭和58年11月、白虹亡きあと夫人、房子さんが継ぐ。復刊50周年の際、房子は「単に俳句の形式に遊んでいるだけの作品にいのちを感じとることはない」と白虹の言葉を伝える。昨年9月房子が逝き、寺井谷子が後を継ぐ。「秋灯かくも短き詩を愛し」た彼女は、「自鳴鐘」は「時計」のことである。それぞれの一句が、豊かな時を刻む秒針の音であるよう祈っていると6月号の「自鳴鐘」に記す。その白虹のやむことのない熱い俳句への志の延線上に今日の記念講演があった。宇多喜代子(現代俳句協会長)の「新興俳句の時代」と福島申二(朝日新聞論説委員「天声人語」筆者)の「寸鉄としての俳句―新聞記者として」の講演である。宇多喜代子の口から西東三鬼、平畑静塔、三橋敏雄、高屋窓秋、白虹などの俳人の名前がポンポンとびだす。さまざまなことを論じながらも二人がともに佐々木巽の「未亡人泣かぬと記者よまた書くか」を取り上げる。佐々木さんは日露戦争に従軍した海軍軍医、山口県吉田で開業、昭和13年、58歳で死去した。「天の川」の同人であった佐々木さんが「葬場」の題で5句の連作として昭和12年に発表した。ほかに「未亡人泣いてみ霊を大きくす」の句もあるのだが、奥さんが心配して墨で消した句帳もある。佐々木さんがもう少し存命であれば新興俳句事件に巻き込まれていたかもしれない。福島記者は吉田を訪ね遺族に逢い、話を聞く。先の戦争でこの村では160人ほどが戦死、5人に1人の割合であった。彼はこの句に刺激され、国と個人を問う連載「桜花論」を書いた。
私が佐々木巽を知ったのは平成12年9月10日号の「銀座一丁目新聞」に掲載された「銀座俳句道場」の寺井谷子さんの選評(兼題は「夏の海」「原爆忌」「ひまわり」)であった。選評に代えてある作品を紹介するとして松尾あつゆきと佐々木巽の句をあげた。「佐々木は無季俳句を書き、この句は無季反戦俳句の代表作である」と紹介した。しかも「記憶してほしい」と付け加えている。
復刊60周年記念号(6月号)に金子兜太は「東国の猛暑の里に自鳴鐘鳴る」を、宇多喜代子は「薫風颯々君にこにことして在れば」をそれぞれ寄せる。会場の壇上には横山白虹と房子の遺影が飾られた。いただいた色紙には「蜂追ひし上衣を肩にして歩く」「桐の花いくたび仰ぎても杳か」の二人の句があった。祝賀パーティーで寺井谷子は軽妙に司会を務める。来賓には北橋健治北九州市長、末吉興一前市長、作家古川薫夫妻、作家佐木隆三らが姿をみせる。その来賓を紹介しながらさりなく家族の名を読み上げる。「寺井宏、連れ合いです。とても感謝してます」という。両親を見て育ったせいであろう、夫への思いやりを忘れない。妹日差子への気配りも行き届いていた。池田守一、山田京子、土田昌子ら多くの同人、会員たちが「自鳴鐘」を支えてきたのも会場の雰囲気からひしひしと伝わった。白虹は「俳句は一本の鞭である」といった。帰京の新幹線の中で「花自鳴鐘(はなとけい)今一本の鞭なりき」の句が浮かぶ。 |