2008年(平成20年)6月20日号

No.399

銀座一丁目新聞

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追悼録(315)

マッカーサー元帥が探した男

  浜本正勝。知る人ぞ知る。企業に入れば大社長となり、軍人になれば大将、間違いない。十分にその素質を持っていた。それでいて本人は「無位無冠」を望み、「自分しかできないことをやる」のを信条とする。東条英機首相、村田省蔵(大阪商船社長・近衛内閣の鉄道大臣、通信大臣歴任)から信用され、作家の石坂洋次郎、同火野葦平から頼りにされる。戦時中ラウレル・フイリピン大統領の特別補佐官となり信頼される。彼のハーバード大学卒という学歴が生涯ついて回り、人生の節目節目で大きく作用する。
 父、音松はハワイで漁業で成功するが、正勝は明治36年9月、北海道余市で生まれる。ハワイで生まれた3人の弟や妹はアメリカ籍。彼はれきっとした日本人である。アメリカで一番難しいと言われたハーバードを目指したのは、ハワイのハイスクール時代、日本人故に唯一人軍事訓練を拒否される屈辱を受けたからである。もともと学校の成績は良かった。猛勉して念願のハーバードに大正12年9月入る。昭和2年6月、政治・経済学部を優等の成績で卒業する。アジア人は彼一人だけであった。「ハーバード精神」は「行動する人間を育てる。公共の利益に大きく貢献する人を世に送る」ということであった。卒業後は日本で「自分にしかできないこと」を目指す。まず日本を知るために慶応大学で江戸文学を勉強する。「日本人の考えの根っこは江戸時代にある」という考えからである。この判断は正しい。井原西鶴、近松門左衛門、松尾芭蕉、落語、講談、浪曲、歌舞伎に親しんだ。後年このことが役に立つ。昭和の初期このような人物は希有の存在であった。服部時計店を経て大阪に出来た日本GMに入る。しかも職工から始める。自動車の部品製造から組み立て までの作業を体で覚えるためであった。海外の販売に関する社内論文で2位になり注目され、昭和13年には広告部長になる。大阪工場で組み立てたポンティアックの第1号を秩父宮様に売り込む。昭和16年12月日米開戦時は満州のGMの代表であった。
 大東亜戦争が起きると、浜本は日本陸軍に志願する。条件を二つ出す。ひとつはとにかく第一線に出してほしい。もう一つは上に上司をつけないでくれ。少佐待遇でマニラへ行くことになる。この人は強運の持ち主である。昭和17年5月31日門司を出る軍用船に乗るはずであった。ところが宮島見物して門司に戻ってみると、軍用船が出航した後であった。仕方なく別の船で行く。浜本が乗るはずの軍用船はマニラへ航行中、アメリカの潜水艦の魚雷で沈没してしまう。人生にはよくこういうことがある。火野や石坂との交流は戦争の初期、フイリピン捕虜の教育中の出来事である。
 やがて東条首相に気に入れられ、南方視察にも同行する。日本語の微妙な表現の即座に英語に通訳出来る語学力と教養、アメリカについての幅広い深い知識、それに国際法についても該博な知識、それに無欲で気骨がある。重宝がられるのは当たり前かもしれない。昭和18年10月14日フイリッピンは軍政を廃止して独立する。ラウレルが大統領になるや浜本を特別 補佐官に任命される。誰にもできる仕事ではない。ラウレルの生活は質素で、目下のものに対しても謙虚で威張るようなことはしなかったという。上に立つ者はいつの世にもこのようにありたい。戦局は日に日に悪くなる。ラウレルの日本への亡命の話が出る。浜本は日本に帰国できるチャンスにもかかわらず、同行を求められるも断る。理由はフイリッピンの閣僚たちを米軍に逃がしたいという。その役目を果たした浜本はルソンの山岳地帯に入り自活の道を選ぶ。ここで日本兵のための精米所を開いたり日本兵と住民のたちの物々交換の物産会社をつくったりして生き延びる。兵站司令部との連絡がついたのは敗戦後の8月29日であった。このころ浜本はアミバー赤痢にかかっておりか だらが衰弱していた。それを救ったのがハーバードの後輩のアメリカ軍の将校であった。スルフォン剤と野戦食をくれたおかげである。
 体を回復した浜本は山下奉文大将の戦争裁判で活躍するもこの裁判ははじめから山下大将を死刑にするためのものにすぎなかった。浜本はBC級戦犯裁判にも積極的に証人を買って出て何人かの人たちの刑期を軽くした。彼も捕虜として収容所に入れられるのだが「マニラに戦前から在住する商人」ということで早く帰国する。これもハーバード出のおかげらしい。帰国後は東京裁判におけ る東条英機大将の弁護を引き受けた清瀬一郎事務所で働く。東京裁判で清瀬事務所から法廷に出された英文の文書のすべてを浜本が書く。浜本がマッカーサー元帥が自分を探していると知ったのは昭和21年3月。日本に引き揚げてからである。重光葵元外相の弁護人ジョージ・ファネスにあったら「マッカーサーが 探しているからあまり表面に出ない方がよい」といわれたという。元帥は浜本を捕まえて何とか罰を与えようとしたようだ。その後浜本は日本映画界の分割を防いだり歌舞伎の存続のために力を尽くしたり活躍する。
波乱万丈の浜本がその人生の幕を閉じたのは平成8年11月、91歳であった。
 香取俊介の著書「マッカーサーが探した男」(双葉社・1998年印刷)には浜本正勝の人間像が余すところなく描かれている。このような隠れた人物を発掘するのは素晴らしい。敬意を表する。

(柳 路夫)

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