NHKテレビの夕方のローカールニュースで長野県信濃町での「一茶おけさ踊り」を流していた(5月5日)。子供が多かったが、みんな楽しそうであった。信濃町では毎年、小林一茶生誕のこの日、「一茶まつり」を開いている。一茶が生まれたのは宝暦13年(1763年)だから今年は生誕245年に当たる。なくなったのは文政10年11月19日(1827年)65歳であった。
地元紙を見ると信濃町柏原にある「一茶記念館」で地元出身の歌手北村優希さん(31)のライブのほか太鼓やダンスなどの愛好者らの公演が行われたとあった。町こぞって一茶を偲んでいるようである。
一茶の句といえば「痩せがえるまけるな一茶ここにあり」と「我れと来て遊べや親のない雀」があまりにも有名。一茶について私は矢羽勝幸著「信濃の一茶」(中公新書・1994年9月発行)と藤沢周平著「一茶」(文春文庫・1981年12月発行)だけしか読んでいない。生涯1万9千句を残したというが、俳人として尊敬に値する人物であるのは確かである。
5月のゴールデンウイークの1日、戸隠神社中社に参拝後、歩いて森林植物園に出かけ水芭蕉の群落を堪能した。その途中、奥社に向かう道端に「一茶の句碑」を見つけた。「秋風のふきもへらさず比丘尼石」とある。明治まで奥社は女人禁制であった。その禁を犯してある女性が踏み入れようとしたところたちまち石になったという伝説がある。近くに由緒ありげな「比丘尼石」がある。句碑には文化15年の作とあったが、矢羽さんの著書の「一茶年譜」によると、文政1年8月「戸隠山に行く」とあるので、このとき詠んだ句であろう。「新緑や見る人なしに比丘尼石」と私は詠む。
東京足立区の炎天寺にも句碑がある.「蝉鳴くや六月村の炎天寺」。一茶は15歳の春、江戸に奉公に出る。50歳の秋、故郷に永住を決意するまで江戸を中心にして俳句に励む。もちろんこの間、故郷にかえっているが、西国行脚も房州旅行もしている。私は何と言っても「さぼてんにどうだと下がる糸瓜哉」や「年問へば片手出す子や更衣」の句に強く惹かれる。
(柳 路夫) |