山に興味を持ったのは昭和31年5月、毎日新聞が支援した日本の登山隊(槇有恒隊長)がヒマラヤの巨峰・マナスル(8125メートル)の登頂に成功してからである。昭和28年には第一次マナスル登山隊(三田幸夫隊長)は登頂まで375メートルで断念している。ヒマラヤ登山は壮大なドラマである。企画力、実行力、強い意志、統率力、協調性、忍耐力、頑健な身体、卓抜した登山技術、資金力の支えすべてがうまくいって成功する。隊員には竹節作太運動部長、依田孝喜写真部員がいた。竹節さんはナンダコットを登頂したベテランであった。社会部の席の隣が運動部で、よくその精悍な顔を拝見した。
世界の最高峰エベレスト(8848メートル)に初めて登頂に成功したのはニュージランドの登山家、エドマンド・ヒラリーさん(88)である。1953年5月29日、英国の第9次エベレスト登山隊(ジョン・ハント隊長)に参加、ネパールのシエルパ、テンジン・ノルゲイさん(1988年死去)とともに南東綾から登頂した。イギリスの王室からナイトの称号を授けられた。そのヒラリーさんが1月11日死去した。その発表はニュージランドのクラーク首相から発表された。日本に比べれば外国では登山家の地位は高く、尊敬されている。ジョン・ハントさんの記録「エベレスト登頂」にはヒラリーとレモンの話が出てくる。登頂の日ヒラリーは朝、起きぬけに多量のレモンジュースに砂糖を入れて飲む。登頂1時間後に甘いレモネードを飲んで元気を回復、テントに戻ったところでテンジンはうんと砂糖を入れたネモネードを作ったというのだ(徳岡孝夫著「ヒマラヤ」−日本人の記録より)。徳岡さんの本にも出ているが,先に頂上を踏んだのはヒラリーカテンジンかという論争である。さらにははたして二人は頂上に立ったのかという疑問も出された。登頂の写真がたった1枚しか発表されなかったからである。1999年、ヒラリーさんはその著書で自分が先に登頂したことを明らかにしている(毎日新聞)。
ヒラリーが初登頂に成功してから35年後、エベレストの南西壁ルートを冬期に、群馬県山岳連盟の登山隊が平成5年12月18日、登頂に成功、22日までに6人が頂上に立った。祝賀パーティーで私は次のような挨拶をした。「英国であるならば招待しなくても首相が駆けつけ登山隊にその功績と労をねぎらうでありましょう。私は別に日本の首相が出席されないのを不満に思っているわけではありません。本日来賓として自民党政調会長橋本竜太郎氏,同元幹事長,小淵恵三氏にご出席をいただいており,嬉しく思っております」橋本氏も小渕氏も間もなくしてあいつで首相になられたのは嬉しいことであった。
このとき登頂に成功した一人、尾形好雄さん(登攀班長)は今スポニチの事業部に在籍している。「スポニチ登山学校」の校長でもある。ヒラリーの死去に対してエベレスト登山で最も難しい冬期に登頂に成功した尾形好雄さんの話をどこの新聞も載せないというのは新聞記者の怠慢と言うほかないと思いつつヒラリーの死をしのんだ。
(柳 路夫) |