2008年(平成20年)1月20日号

No.384

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安全地帯(203)

信濃 太郎

歌供養を6月の季語になってほしい

 毎日新聞で一緒に仕事をした坂野将受さん(故人)の著書「さまざまな出会い」(千人社刊・昭和59年9月14日発行)で作曲家の船村徹さんが誕生日の6月12日に東京文京区の護国寺で毎年、歌供養をしているのを知った。時代の心をとらえて大ヒットする曲あれば、束の間、燃えて消えゆく歌がある。そこで、捨てられていった歌を偲ぼうと、レコード関係者が集まって歌供養をする。梅雨の6月はデビューの新人が生き残れるか、新曲が売れるか、売れないかほぼ見通しのつく時期である。もちろん施主は船村さん。
 坂野さんの本によれば毎年、デビューする新人歌手がざっと3百人。その新曲だけで千曲を超す。その中でスター街道を進むのはわずか1パーセントだという。供養の場所を護国寺に選んだのは,親友の作詞家高野公男(昭和31年9月8日26歳で死去)と音羽のキングレコードで何度も何度も玄関払いをくいながら「二人でいつかヒット曲を」と誓い合ったのが護国寺の丘であった。
 二人はともに東洋音楽学校で学ぶ。高野が声楽科、船村はピアノ科。高野は茨木、船村は栃木と隣り合わせであった。二人は中途退学するが「やがて故郷は見直される。故郷の歌を書いておれば、必ずヒットする時代が来る」と曲を書き続けた(小西良太郎著「海鳴りの詩」集英社)。高野がキャバレーのボーイ、船村が銀座の流しからバンドマンをしながら昭和20年代の苦しい生活を乗り越えた。そこで生まれたのが「別れの一本杉」(歌・春日八郎)であった。
 坂野さんは船村さんのことを毎日新聞夕刊「ひと」欄(昭和59年6月12日)に紹介する。記事は「僕が死んでからでいい、歌供養が歳時記に6月の季題として残ってくれるといいんですけどね」という船村さんの言葉で終わる。第1回の歌供養から今年で24年。船村さんも75歳となる。私も歌供養が6月の季題(季語)になればよいと切望する。季題は時代によってはやり捨てられてゆく。歌供養が季題になってもおかしくない。それには俳句に歌われなければなるまい。寺井谷子さんは「季語は日常の暮らしの中から生まれてきたものだ」といっている(その著書「俳句の海へ言葉の海へ」NHK出版)。とすれば、テレビの歌番組は毎日のようにあり、NHKの紅白歌合戦は視聴率30パーセントを超える。日常生活の中に歌はしみこんでいる。ここから新しい季題が生まれてもよい。大野雑草子は「季題とは日本人の伝統的季節感と情感によってセレクトされた季節の言葉,季(とき)と詞(ことば)で俳句とは季題を詠む詩だ」といっている。歌供養を詠みこんだ詩を作ればよいわけだ。苦吟して「歌かなし読経の中歌供養」が頭の中から出てきた。機会を見て「歌供養」の句を作ろう。

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