毎日新聞整理部のOB会「三金会」の暮れの会合に出席した際、「整理本部を語る」の冊子をいただいた。整理部のOBたちがそれぞれに思い出を書いているのだが、出色の出来栄えである。石綿清一さんが「決断力の宮本さん」と題して宮本義男さんと殴り合い喧嘩をしたことから宮本さんの温情、スポニチ社長時代の奮闘ぶりを書いている。その中で「スポニチ社長就任直後、毎日オリオンズ重点報道の方針を読売巨人を一面に載せる大英断で部数を急激に伸ばした宮本さんは、いい意味で変わり身の早いひとだったし決断力の重要さを教えてくれた人でもある」と激賞する。私の三代前の社長で、スポニチ再建の救世主として今なお語り継がれているので興味深く読んだ。
宮本さんは昭和31年3月1日、毎日新聞の学生新聞部長からスポニチ東京支社編集長に就任する(当時大阪が本社・創刊は昭和24年2月1日・東京支社は25年3月6日)。当時の毎日新聞の編集局長山本光春さんから「利益の上がる新聞を作れ」と命じられてのスポニチ行きであった。約50名の編集部員を目の前にした宮本編集長の第一声は「切れば血の出る新聞作るんだ」。まず取り上げたのは力道山のプロレスであった。これがあたった。部数は伸びた。初めての試みとしてプロ野球全キャンプ地に記者を常駐、報道させた。また野球解説の第一人者小西得郎さんを粘って獲得した。編集長就任4年で部数を20万台に乗せる。次々に打つ見事な宮本さんのやり方を社員たちは「宮本魔術」と呼んで感嘆した。宮本さんが実質社長になるのは昭和35年8月10日東京支社が独立して東京本社となってからである。
社員の使い方が実にうまかった。多分に軍隊経験がものを言っている。宮本さんは昭和18年臨時招集されて、予備士官学校を経て満州で任官、終戦時には香川県豊浜で幹部候補生学校の教官をしていた。よく「一人三前働くべし」という言葉を口にした。もっとも整理部育ちの宮本さんは名整理部デスクの名前をほしいままにした。整理部記者の条件である1、価値判断力が高いこと2、決断力と同時に細心さ3、広い知識と関心4、表現力5、健康6、造形的な感覚能力(昭和35年の「整理部記者の実態調査」報告による)を十分に兼ね備えているのだからスポニチ社長として大活躍するのは当然であった。
宮本さんは社長在職中の昭和46年2月15日、56歳で死去された。スポニチに来て14年、よき新聞記者たちを育られた。私が社長になったとき宮本さんのもとで育った記者たちが局長、役員として私を支えてくれた。
(柳 路夫) |