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小さな個人美術館の旅(42) 東山魁夷館 星 瑠璃子(エッセイスト) 東山芸術の原点は、終戦の年、あるいはそれに続く数年にあるのではなかろうか。 1945年4月、東山魁夷は戦火を避けて病気の母を背負い飛騨高山へ疎開、肺を患っていた弟を富山県の療養所に移した。自身は長野県小諸の東京計器工場に勤務するため単身赴くが、4月、来るべきものが来た。招集令状である。 ただちに熊本の部隊に配属され、有明湾に米軍が上陸したときの対戦車攻撃の訓練中に終戦を迎えた。息子の復員を待ちかねていたかのように、母はその年の11月に逝去。翌年には、弟も療養先で亡くなってしまう。弟の死は、文展が日展として開催された第一回展への出品作が落選と分かったその直後に知った。父は終戦の三年前、兄は美術学校在学中にすでに亡く、彼は妻の他には一人の肉親もない、天涯孤独の身となったのである。あてもない、ぼう莫とした思いにとらわれたとしても不思議はなかったろう。 敗戦の翌年の冬、千葉県の鹿野山の山頂に立った。折からの夕日に照らされて遥かに続く山並みをつくづくと眺めながら、幸うすく死んだ母や弟を思い、一年前に行軍で行った熊本城の天守閣から眺めた阿蘇の裾野の眺めを思いだした。当時のことを、画家は後に美術評論家、故河北倫明氏との対話で次のように語っている。 「その頃、私は、爆弾を持って戦車に体当たりする訓練ばかりをしていたんです。そういう状態のなかで、私はもうすでに死んでいるわけですね。その時に熊本城から阿蘇の裾野の風景を見まして、何でもない当たり前の風景なんでしょうけれども、その平凡な風景が私に何かを強く感じさせた。初めて風景は生きているという感じがしたんです。生命ある自然の姿が、自分が生命の乏しい状態であるために見えたのですね。そして万一生きのびたら、いま自分に見えたこの感動を描こうと思ったんです」 鹿野山での印象をもとに、かつて歩いた信州や上越の山々を思い浮かべながら描いたその作品「残照」は、翌47年の第三回日展で特選に推され、政府の買い上げとなって、東山魁夷の存在を一挙に注目させることになった。1908年(明治41)生まれ、東京美術学校の日本画科を卒業後間もなくドイツへ留学し、帰国して十年も経っていた画家の、遅いといえば遅い戦後のスタートであった。「郷愁」はその翌年、「道」はさらにそれから二年後の作品である。 「残照」「郷愁」「道」。東山芸術の源流ともいうべきこれらの風景画が私は好きだ。画集で見てさえ心揺さぶられる。簡潔で清らかな抒情に満ちた画面を見ていると、「描くことは祈ること」と後に語った画家の言葉を思い起こさずにはいられない。 名刹善光寺に隣接した城山公園の一角、長野県信濃美術館に併設された東山魁夷館に着いたのは、夕日が山の端にかかる6月の、もう夕方近くだったろうか。白馬から峠を幾つも越えて辿りついた。駐車場に車を置いて敷地に入ると、池越しに美術館を見遥かすプロムナードに出た。生け垣の一角から、雁行形に連なる真っ白な壁面が水の反射を浴びてきらきら光っているのが見える。どこかで見たようなたたずまい、と思ったら、土門拳記念館と同じ谷口吉生の設計と気がついた。そういえば清春白樺美術館も同氏の設計だった。玄間前の浅い階段をもつ不思議な空間がずっと気になっていたが、あれももしかしたら池だったのかもしれない。
谷口氏はこんど二十一世紀へ向けて改築される新MOMA(ニューヨーク近代美術館)の設計を世界二十一人の建築家の中から選ばれて手がけることになった、と先日読んだ新聞記事を思い出した。「建築というものを作るのではなく、作品鑑賞にふさわしい環境をつくることを目指した」と語っていたが、ここ東山魁夷美術館も、余分なもの一切をきっぱりと排除した清々しくプレーンな空間の、ただひとつのポイントが水であった。 画家から自家所蔵の本制作、試作、習作、下図、スケッチ、版画などを含めた七百点を越える作品の寄贈を受けて東山魁夷館が開館したのは1990年のことだ。横浜生まれ神戸育ちの画家の美術館がなぜ長野かといえば、美校時代に友人三人とテントを背負って木曾川ぞいに八日間の徒歩旅行をし、山国の自然の厳しさに感動を受けて以来ずっと信濃路の自然を描きつづけてきた東山魁夷の、長野は第二の故郷なのだった。 ロビーからゆったりとした吹き抜けの階段を上ってゆくと、広やかな展示室に出た。本制作を中心に、「北欧風景」「京洛四季」「白い馬の見える風景」「大和春秋」「大地悠々」「天山遥か」など誰でもが知っている有名なシリーズから、選び抜かれた作品が並んでいる。 「あらっ、この作品はこんなに小さかったの?」と驚いてよくよく眺めると、それはスケッチだったり、習作だったり下絵だったりのプレートがあって、了解した。なんともユニークな展観である。このように本制作までの道程を見られることは興味深いことだが、それよりも何よりも、スケッチとか下絵とかいうこんな小さな作品までもが、独立して鑑賞にたえるものであることに私は打たれる。 そんなことを思いながら作品と向かいあっていると、先に挙げた「郷愁」について画家が書いた文章を思い出した。帰って調べてみるとこうあった。「感傷に流れるのを恐れて、私は綿密な写生をした。大下図をその場所へ持って行って描きこんだくらいである。しかし、制作にあたっては、細かな描写を上から上から塗り込んでいって、青一色の模糊とした風景の中に、川だけをほの白く見せた」
広い展示室を一巡して階下へ下りると、来る時に見た人工の池が一面に夕日を受けて、小さなさざなみを立てながら輝いていた。その美しさ。池に向かって張り出したテラスに立てば、美術館はまるで池に浮かぶ島のようだ。下りて来た人々が、声もなく立ちつくしている。私は夢中でカメラのシャッターを切った。
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