小さな個人美術館の旅(19)
土門拳記念館
星 瑠璃子(エッセイスト)

 ここを訪れるのはこれで何度目になるだろう。はじめて来たときは夏の盛りで、そこに立つときらきら光って流れる最上川や酒田港を見おろす記念館の背後の飯森山の木々の緑が、池にくっきりと影を落していた。今日はひんやりと冷たい晩秋の雨もよい。鳥海山も見えず、冬になるとシベリアから数千羽が飛来するという白鳥がまばらに舞い遊んでいるばかり。けれども、その池にまるで浮かんででもいるような記念館に向かってゆったりとしたプロムナードを進んでゆくと、それだけで期待に胸がしめつけられるようだ。この記念館はそれほど美しい。全国の美術館、記念館のなかでも最も見事な館の一つではなかろうか。1984年の吉田五十八賞、87年の芸術院賞を受賞した建築家谷口吉生氏の設計は、ただ美しいばかりでなく、心にしみる。

 土門と古くから親交のあったグラフィック・デザイナー亀倉雄策によるブロンズの銘板のある簡潔な吹き抜けのエントランスから、ガラス越しに白い石が幾重にも連段となって白鳥池へとつながってゆく中庭が見える。広く浅い石段を絶え間なく流れ落ちる水。竹林の微かなそよぎ。流れのなかに立つイサム・ノグチの彫刻。これらは回遊式の館の内部からも眺められるものだが、なんという心にくいばかりの演出だろう。

土門拳記念館

 館内は、入口からやや暗めの廊下をゆくと突き当たりが大きな主要展示室、左手が企画展示室だ。奥にもうひとつ展示室があって、そこは、これも土門の友人で草月流家元、勅使河原宏の「流れ」の庭に面している。一面に開いたガラス窓がそのまま額縁になり、右側の建物の直線に対してゆるやかな曲線で構成された石の流れが、斜面に沿って飯森山に向かって展開するさまはそれ自身が絵のようで、いくら眺めても見飽きることがない。それぞれの展示室には、生涯の作品七万点から「古寺巡礼」「室生寺」を中心に「古窯遍歴」「ヒロシマ」「筑豊のこどもたち」など名作シリーズが展示され、季節ごとに年四回の展示替えが行われている。

 改めて言うまでもないことだが、土門拳の写真はリアリズムに徹した作品ばかりだ。いま展示されている古寺も、古窯も、こどもたちも、リアリズムならざるものはない。雰囲気とか情緒とかそんなもの一切をとり払ったところに屹立するような作品に向きあっていると、前に読んだ高村光太郎の言葉を思い出した。

 「土門拳のレンズは人や物を底まであばく。レンズの非情性と、土門拳そのものの激情性とが、実によく同盟して被写体を襲撃する。この無機性の眼と有機性の眼との結合の強さに何だか異常なものを感ずる。土門拳自身よくピントのことを口にするが、土門拳の写真をしてピントが合っているというならば、他の写真家の写真は、大方ピントが合ってないとせねばならなくなる。そんなことがあり得るだろうか」。

 土門拳自身は次のように言う。

 「ぼくが写真においてリアリズムの立場をとるのも、つまりは、人間の全存在を決定する事実というものの絶対性に帰依するからである。そしてカメラのメカニズムこそは、事実そのものの鋭敏なレコーダーであり、逆にまた仮借ない嘘発見器でもある。それは自分と生きていることの実証そのものである。もしメタフィジカルな思考そのものを志向するなら、ぼくたちはカメラを捨てて、ペンをとるなり、絵筆をとる方がいい。ぼく自身は、ペンにも絵筆にも託しきれないものを志向して、カメラをとり、そして写真のリアリズムに達したと告白しよう」(『死ぬことと生きること』)

土門拳記念館

 彼が偶然のきっかけから写真の道を選び、写真館でいわば丁稚奉公をしながら刻苦勉励、文字どおり寝る間も惜しんで「写真」を学んで独立してゆく道筋はよく知られるところだが、もとはといえば、彼は画家志望の少年だった。学費が苦しくてたびたび退学の危機に見舞われながらも中学を卒業できたのは「あれは将来、絵でものになるかも知れんからと説く人もあって、学校は月謝免除の特典をはからってくれた」(『私の展歴書』)からだし、中学三年の時には、安井曽太郎が審査員をつとめる美術展に入選、三十円という当時としては無茶苦茶に高い値をつけたが売れてしまったほどだった。それが、ある日を境いに自分の才能に見切りをつけて、ぷっつりと絵をやめてしまった。「絵というものを取り去った瞬間から、生きてゆくべき力の泉を涸らしてしまって、何度も自殺を考えた」ほどの土門に、ある日母親が言った。「お前写真をやる気はないかい」。

 写真など全く知らず、まるで考えてもいないことだったが、他にしたいこともない。それではと母へまかせ、町の写真館へ住み込んだというわけだ。二十四歳、写真家土門拳の遅いスタートだった。

 それから四十六年――。ひたすらカメラに向かい続けた。二度にわたる脳出血の発作からさえ血のにじむような努力で立ち直り、左手でシャッターを押し、車椅子で撮影行を続けたが、ついに三度目の発作で意識不明となり、その後十一年間、一度も意識をとりもどすことなく1990年、八十歳の生涯を閉じた。親しい友人が見舞いに訪れると、その目からすうっと一筋の涙がこぼれたという。

 「人はぼくの『室生寺』をほめてくれる。今のぼくは、あんなものをほめてもらってもうれしくはない。あれはもう古い。今のぼくは『室生寺』より先に進んでいる。そして今のぼくが、また古くなる時がくるに違いない」とは『死ぬことと生きること』のなかの言葉だが、いまこの故郷の記念館で室生寺弥勒堂の釈迦如来の横顔を見つめていると、古さとか新しさなどというものはどこかに吹き飛んでしまう。ここにはそんなものを越えた何かがある。それを何といったらいいのか、例えば「日本のいのち」とでもいったものが永遠に刻まれているといったら大袈裟だろうか。

 住 所 山形県酒田市飯森山文化公園内 TEL 0234-31-0028
 交 通 羽越本線酒田駅よりタクシー15分
 休館日 月曜日(祝日を除く)と年末年始。4〜1月は無休

星 瑠璃子(ほし・るりこ)

 東京生まれ。日本女子大学文学部国文学科卒業後,河出書房を経て,学習研究社入社。文芸誌「フェミナ」編集長など文学、美術分野で活躍。93年独立してワークショップR&Rを主宰し執筆活動を始める。著書に『桜楓の百人』など。

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