2007年(平成19年)12月10日号

No.380

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茶説

産経新聞のおかしな記事に異議あり

牧念人 悠々

 産経新聞の一面トップにおかしな記事が掲載された。ニュースでも解説でもない。評論ともいうべきかもしれない。評論であればものの見方が違っても何ら異とするにたらないが、どちらかというと取材不足で誤報に近い。好きな産経新聞だけに残念でならない。
 11月24日の産経新聞は一面トップ、5段扱いで縦見出し「瀬島少佐と配達遅らせた」横に「陸軍通信課員証言」。さらに横見出しに「日米開戦前 米大統→天皇宛親電」「最後通牒に影響か」とある。
 記事の前文には「昭和16年の日米開戦で最後通告の手渡しが遅れた原因の一端を示すとみられる史料が、防衛省防衛研究所に保管されていることが分かった。史料は、ハワイの真珠湾攻撃成功を目指す旧日本軍が開戦直前、ルーズベルト米大統領から天皇あての親電の配達を遅らせたことを明確に裏付ける内容で、旧陸軍参謀本部作戦課の瀬島龍三少佐(当時)の関与を示唆した文書が見つかったのは初めて。親電の一時さし止めが最後通告の遅れにつながった可能性を指摘する専門家もおり、通告の遅れをめぐる論議に一石を投じることになりそうだ」とある。
 記者が根拠にした史料は防衛研修所戦史室に保管されている「防諜ニ関スル回想聴取録」(昭和11年8月から20年)。陸軍参謀本部通信課員であった戸村盛雄少佐(陸士40期、陸大51期・南方軍参謀)が昭和37年3月、防衛庁の事情聴取に対して大統領の親電問題について答えている。それには

「親電問題
 1、7日は日曜日で午前11時ごろ参本の廊下で瀬島とバッタリ会った。瀬島から『南方軍の船団が飛行機に発見されて之をおとした』と聞いて之が開戦の第一発である(大令も出ている)と思って瀬島とも一緒に考えて親電を遅らした(親電については勿論ラジオ放送でも聞いていた。注・AP電、UP電が7日正午前に米大統領が天皇陛下あてに親電を発信したことを放送発表した)
 2、参謀総長は全然タッチしていない。(注:極東裁判の)検事側は東条首相の指示で遅らしたとしたかったが、参謀総長は当時死んでおったので表面的には参謀総長の指示に拠ったと主張した。国際裁判では英文はわからないと云ってサインを拒否した」とある。(注・参謀総長は杉山元元帥、陸士12期、陸大22期・第一総軍司令官・昭和20年9月12日自決・68歳)

 記者はここで「瀬島龍三少佐(陸士44期、陸大51期・関東軍参謀)が親電配達を遅らせるのに関与した可能性が出てくる」と早とちりをしてしまった。その後の経過を見落としている。取材不足、不 勉強のそしりを免れない。平成7年9月30日に出版された瀬島龍三著「幾山河」には次のように書かれている。≪防衛庁防衛研修所戦史室の戦史叢書では、米国ルーズベルト大統領から昭和天皇あての親電が天皇のもとに届く時間が遅れた問題について、参謀本部通信課参謀の戸村盛雄少佐と作戦課の瀬島少佐が相談して決めたように書かれているが、雑誌「諸君」の平成4年2月号に掲載された戸村氏の遺稿によると「瀬島少佐と話し合った内容は当時の戦況や開戦企図の秘匿等についてであり、親電そのものには触れていない。戸村少佐自身が親電についてアメリカの謀略工作と判断し、皇居へ届ける時間を十時間以上遅らせる措置をとったと書き「その責任は自分一人にある」としている≫(同書125ページ)。なんと この「幾山河」の出版社は産経新聞の子会社の産経新聞ニュースサービスである。この戦史室の「戦史叢書」は平成3年3月10日に出版された「昭和天皇独白録・寺崎英成・御用掛日記・文芸春秋刊」にも出ている。
 平成4年2月号の「諸君」には戸村盛雄さんの遺稿「昭和天皇への親電をなぜわたしはおくらせたのか」が載っている。「全責任は私に」。ルーズベルト大統領の親電を遅らせた当の人物が死(平成2年3月死去)の直前に綴ったと脇見出しにある。京都産業大学教授、須藤真志さん(「ハル・ノートを書いた男」・文春新書の著者)が「義父・戸村盛雄の遺稿について」のコメントを書いている。須藤教授は「戸村が独断で決定したことに間違いない。上司であった高級課員、吉川猛中佐(陸士35期、陸大45期)、課長の梶秀逸大佐(陸士32期,陸大39期)部長の加藤?平少将(陸士25期、陸大36期)に全く相談なくやったのが真相である」としている。産経新聞はこの日の三面で須藤教授の「戸村少佐は日本軍が英軍機を撃墜したという瀬島少佐の話を聞いて遅らせる決意をしたと聞いた。瀬島少佐が最後通告を遅らせたとは思えない」という談話を載せている。
 つまり戸村さんの遺稿を無視してまで親電の遅配が最後通告の関係があったとしたいのであろうか。
あるいは関係があったと問題にしたいのであろうか。結論的にいえば「昭和天皇独白録」にあるように「この親電は非常に事務的なもので首相か外相にあてた様な内容のものであったから黙殺できたのは不幸中の幸いであった」。さらに親電と最後通告がその手順が別々に進んでいることと考え合わせれば両者の間は関係ないとみるのが妥当であろう。戸村さんは東京裁判で検事から親電問題を追及されたが最後は不問となった。戸村さんは「ルーズベルトもこの親電によって開戦が回避されるとは心底思ってもいなかったことをアメリカ側も認めており、それで最終的に大きな問題としなかったのであろう」と推測している(遺稿)。
 今回の産経新聞の記事は記事としての体裁は整えている。記事に対する否定する識者の意見も出ている。しかし記事の根拠は防衛庁による戸村少佐の証言である。これがさらに戸村少佐によって詳しく証言されているのを無視して書かれているのが問題である。戸村さんの遺稿が公表されてから15年も経つのに、いまさらのように「史料が防衛省防衛兼研究所に保管されていることが分かった」と書くのは読者を馬鹿にしている。記事は心をこめて書けと言いたくなる。

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